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山号寺号 多福山大寳寺
建立 応永六年(1399)
開山 -
開基 佐竹義盛
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新羅三郎義光の墓 |
大宝寺縁起
応永六年(1399)佐竹義盛が出家し、多福寺を建立した後、早い段階で廃寺となり、その旧寺名を山号にし、文安元年(1444)日蓮宗の日出が多福山大宝寺として再興しました。 境内には新羅三郎義光が信仰したと云われる多福明神社が祭られています。 新羅三郎義光は、源氏一族のカリスマ八幡太郎義家の弟で、佐竹氏の祖と云われています。大宝寺と八雲神社に義光の伝承が残されており、また、子孫の佐竹氏がここに邸を構えていたことから、義光の関東での拠点が、ここ名越の大宝寺辺りだと考えられています。また、大宝寺の裏山丘陵部を佐竹山と云い、祇園山ハイキングコースの一部として親しまれていて、連なる丘陵沿いには、妙本寺や東勝寺跡などがあります。
大宝寺境内図 「1」祖師堂「2」客殿庫裡「3」新羅三郎義光墓「4」墓地石塔群「5」墓地石塔群「6」平場「7」平場 |
大宝寺境内絵図
画像は、宝暦九年(1759)に作成された大宝寺境内図です。実際にもそうですが、絵図を見ての通り、裏山が見事なまでのコの字型となっています。 また、少し微妙な点もありますが、白い枠が現在の推定大宝寺領域だと思われます。そして、絵図からも分かるように、往時はこの小谷戸一帯が大宝寺領域だったようです。
「3」は新羅三郎義光の墓で、絵図には建物が描かれているいわゆる墳墓堂の状態なので、少なくとも江戸時代までは、現在のように石塔だけではなかったようです。それから「5」の墓地と思われる石塔群エリアは、大宝寺から少し離れた住宅街の奥にある現在でもある墓地だと思われます。
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佐竹砦
境内は、3フロアの平場で構成されるひな壇状になっています。少し位置が違いますが、一番上のタイトル画像を見でもらえれば、その段々状が伝わるかと思います。
そして、上画像からも分かるとおり、大宝寺を囲む丘陵が絶壁状に削られています。ここまで凄いと、これはさすがに近現代の造作かと思いましたが、よく考えたら近現代でこんな事をする必要があるのか?と、この造作がいつの時代のものなのか今でも悩んでいます。 ちょうど絵図でいう「3」の義光墓の辺りなので、もしかしたらそれに関連した造作跡が含まれるのかもしれません。
御家人の邸地跡がそのまま寺社となるケースも多い鎌倉にあって、大宝寺の境内に残るひな壇状地形などの造作は、その伝承からも佐竹邸跡らしき痕跡とみて間違いないようです。そしてそれを証明するかのごとく、裏山には城郭遺構としか思えない痕跡が確認できます。
佐竹山城郭遺構
『東勝寺跡・妙本寺周辺現状測量調査報告書』では、佐竹山付近では崖面が急峻になる事と、屏風山にはなかった平場が現れると記しています。 そういった視点で祇園山ハイキングコース大宝寺裏山部分を見ると、確かに東勝寺のある屏風山が、その名の通り、立てた屏風のように痩せた丘陵だったせいもあってか、ここ佐竹山では尾根道自体が平場かと思える程に広く感じます。
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「上 佐竹山尾根」 「下 佐竹山崖面」 |
佐竹氏は15世紀初頭までこの地を鎌倉の邸地としていたようです。一方で東勝寺が北条氏一門と共に灰と化したのが1333年なので、両者にはかなり時間の隔たりがあります。 その間に進化した城郭の主な形が、上記した急峻な崖面と、曲輪状の平場の出現なのかもしれません。東勝寺の裏山では見られなかった地形です。
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上画像は、境内絵図の「7」部分の平場です。もし、これが佐竹邸時代からの造作であれば、丘陵頂部の平場なので、軍隊の駐留場として活用されたのかもしれません。また、この平場を囲うように溝が確認できました。
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上画像は、大宝寺を囲むのコの字型の丘陵の東側、境内絵図の「3」近辺です。やや勾配があるもののハイキングコース尾根から大宝寺を間近で見下ろせる場所まで下りて行けます。 尾根の形状は見事なまでの土塁状となっており、完全に人為的なものと思われます。 尾根の先端は確認出来ませんでした。境内絵図のように完全に下まで行けるような感じではなかったので、近現代において先端を削ったのかもしれません。
この造作の用途として、邸地と裏山をつなぐ連絡路のようなものではないかと思われます。また、尾根には削り跡や底部のへこみなどがみられました。
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そしてこちらが、妙本寺裏山から佐竹山に差し掛かる地点で、祇園山ハイキングコース最大の傾斜道となっています。位置的にも、まるで境界線を意識した城壁のようにも感じます。もしかしたら、当初は堀切のような形で造作されたのかもしれません。
頂部に平場、そして谷間を囲むように存在する土木遺構の数々。そして境内絵図の3・7・6と、佐竹邸を囲む丘陵全体を移動出来る仕組みになっています。これら全てが当時からの造作であった場合、佐竹山はちょっとした中世山城のようです。
佐竹やぐら
応永二十九年(1422)上杉憲直と佐竹氏の家督争いによる争乱のため、佐竹与義が一族・家臣を含む13人と共に妙本寺の新釈迦堂で自刃します。妙本寺の新釈迦堂跡には与儀らを供養したと伝わる佐竹やぐらがあります。内部には石塔が並べられていて、中でも与義のものと思われるひとつだけ背の高いものも確認できました。 ちなみに、石塔の数は13以上ありました。殖えたんでしょうか・・
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妙本寺新釈迦堂跡にある佐竹やぐら |
大宝寺が新編鎌倉志に掲載されなかった訳
黄門様でおなじみの水戸光圀が編算させた『新編鎌倉志』には、鎌倉中のお寺を含む旧蹟が紹介されています。しかし、当時あったであろう大宝寺が何故か取り上げられていません。 この事に気づいた時、私はある逸話を思い出しました。それは・・
徳川家康と石田光成の天下分け目の決戦、関が原の戦いにおいて、当時の佐竹氏は、西軍の石田側に組みしたかったようですが、情勢を考えて、戦いに参加しないという立場をとります。
そして合戦終了後の賞罰の結果、佐竹氏はお家取り潰しを免れたものの、先祖代々受け継いできた水戸の地から現在でいう秋田県に転封されます。
この時、佐竹のお殿様は、水戸領内の器量の良い女性をかき集めて、秋田に連れて行ってしまいます。 その後、家康の孫である黄門様が、水戸の領主として赴任したところ、この佐竹の暴挙に怒り、抗議します。 これに対し、佐竹のお殿様は、転封先の秋田から器量の悪い女性をかき集めて水戸に送ったそうです。 こうして、秋田は現在でも美人の産地として知られる一方で、水戸は美人不毛の地となったそうです。
そして合戦終了後の賞罰の結果、佐竹氏はお家取り潰しを免れたものの、先祖代々受け継いできた水戸の地から現在でいう秋田県に転封されます。
この時、佐竹のお殿様は、水戸領内の器量の良い女性をかき集めて、秋田に連れて行ってしまいます。 その後、家康の孫である黄門様が、水戸の領主として赴任したところ、この佐竹の暴挙に怒り、抗議します。 これに対し、佐竹のお殿様は、転封先の秋田から器量の悪い女性をかき集めて水戸に送ったそうです。 こうして、秋田は現在でも美人の産地として知られる一方で、水戸は美人不毛の地となったそうです。
面白すぎて本当にあった話しなのか微妙ですが、つまり、この事をきっかけとして、黄門様が佐竹に恨みを抱いていたため、新編鎌倉志では佐竹氏所縁の大宝寺を取り上げなかったのではないでしょうか。日本各地に赴き、悪代官を退治していた黄門様ですが、本当にしてやりたかったのは佐竹退治だったのかもしれません。まぁそもそも黄門様ともあろうお方が、そんな器の小さい人間だったとは思えませんけどね。
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探索期間 2011年7月~2012年7月
記事作成 2013年4月10日