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山号寺号 泉谷山浄光明寺
建立 建長三年(1251)頃
開山 真阿
開基 北条時頼 北条長時
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不動堂 |
浄光明寺縁起
古義真言宗京都泉桶寺(せんにゅうじ)派で、鎌倉期は重時流北条氏、もしくは赤橋流北条氏の菩提寺として、浄土・華厳・真言・律・天台・禅等諸宗の兼学道場として栄えていました。幕府滅亡後は成良親王の祈願所となり、足利尊氏・直義の帰依を受けています。 また、鎌倉公方足利基氏・氏満の分骨を祀り、直義の位牌を伝えるなど、足利氏の菩提寺ともなっています。開基は赤橋流北条氏の長時と考えられていましたが、浄光明寺創建前後の時期に、長時が六波羅探題として京都に赴任していたことから、建立は時の執権、北条時頼、もしくは時頼と長時の2人の発願によるものと考えられています。
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客殿 |
阿弥陀堂
本堂脇から階段を登った一段高い場所にある阿弥陀堂は、寛文八年(1688)に建てられた古建築で、寺伝によると、永福寺から移された堂だと伝わっています。つまり永福寺の資材を使って組み立てたという事だと思われます。また 『史跡浄光明寺境内・冷泉為相墓』によると、ここ阿弥陀堂敷地内で発掘調査が行われ、礎石建物・溝・切通路等の中世に帰属する遺構が確認されています。その他、鶴岡八幡宮の神主を代々務めた大伴神主家の墓や二十五坊から引き上げた石造類などが安置されています。
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阿弥陀堂敷地を取り囲む壁一面にやぐらが施されている |
それからなんと言っても、浄光明寺の本尊でもある正安元年(1299)作の木造阿弥陀如来像がここで拝観できます。鎌倉期のものである事、そして北条氏が関わっているという歴史的ブランドも相重なってか、その重厚な雰囲気に毎度圧倒されます。
石造地蔵菩薩坐像
浄光明寺塔頭の地蔵院があった場所に、石造地蔵菩薩坐像を祀ったやぐらがあります。地蔵は、安山岩製の等身大坐像で、墳墓堂としてのやぐらの本尊として安置されていて、別名を網引地蔵とも云います。
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地蔵背後の壁面下部には矩形の龕(画像の番号①)、地蔵の頭上には円盤状の窪み(画像②)、左右壁面には矩形の窪み(画像③)、奥には副室(画像④)、そして内壁一面には漆喰を塗るための掘り込がぞれぞれ確認出来ます。今でも美しい石造ですが、このやぐらの往時の姿はかなり豪華なものであったようです。 『鎌倉市史 考古編』に「蓮座様式(画像⑤)も地蔵そのものも鎌倉期のもの」と記されてあります。 実際にも、地蔵の背にある銘文に、当寺第三世長老性仙和尚が、正和二年(1313)に供養したことが記されているそうです。
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地蔵院跡平場 |
冷泉為相墓
地蔵院跡平場から階段を登り高台へ向かうと、ちょうど浄光明寺裏山の尾根部分となっていて、冷泉為相の墓が安置されています。こちらも安山岩製の宝篋印塔です。 『鎌倉市史 考古編』には、「本墓は水戸光圀が建てたと伝えるものであるが、塔そのものは南北朝期のものとしてよく整っている」と、ちょっと意味ありげな記述がありました。 冷泉為相は鎌倉の御家人達に和歌連歌を教授していた歌人で、所領をめぐる相論のため鎌倉に下向してきています。 お隣の藤ヶ谷に邸を構えていて、当時は藤ヶ谷式目をつくるなどして鎌倉歌壇を盛り上げていました。
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冷泉為相先生と一緒に浄光明寺からの景色を眺める |
また、近くには小さい五輪塔がぎっしり敷き詰められたやぐらがあります。やぐら内壁は、東林寺跡にあったアパートやぐらのように、小さい部屋がいくつも施されています。一時的に多くの人が亡くなったことで、短期間に供養しなければならない事情による造作なのかもしれません。元弘三年(1333)の幕府滅亡時、もしくは永仁元年(1293)の大地震などが考えられます。
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記事作成 2013年4月18日