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清涼寺ヶ谷は、お寺もなく、観光客が訪れることもない小さな谷戸です。しかし 『鎌倉市史 考古編』によるところ、清涼寺ヶ谷の山腹には五段のひな壇状に鎌倉期のやぐら群が分布し、数えられたものだけでも101基あるそうです。
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Google Map 新清涼寺ヶ谷 ①天柱峰 ②平場 ③平場 ④ひな壇状地形とやぐら群 |
鎌倉市教育委員会の『亀ヶ谷坂周辺詳細分布調査報告書』によると、どうやら地図画像の番号④の辺りに四段のひな壇状地形とその各平場にやぐら群が存在するようです。同書では、調査の結果「谷戸全体が寺院跡である可能性が高い」とも記していました。また、この地図画像でも分かると思いますが、④に隣接する③も明らかに平場となっているのが分かります。
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谷戸内の通行路にこのようにやぐらが点在している |
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尾根へと通じる道跡がみられた箇所 |
やぐらは地図画像④の反対側の西側、画像でいうところの左側丘陵部にも分布しています。上記したように、全部で100基以上あると云われるやぐらも、谷戸が小さいためか、民家が全て丘陵を背にしているので、実際に確認できるやぐらは10基ほどしかありません。
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ハイキングコースと新清涼寺ヶ谷を繋ぐ道 |
ちなみに、海蔵寺辺りまで来て、北鎌倉方面に向かいたい時、この清涼寺ヶ谷を通って行くと、化粧坂を経由せずに浄智寺に出る事が出来るちょっとしたショートカットが可能です。ただ、女性・子供連れの場合はお勧めできない道です。念のために。
忍性と新清涼寺
そしてここ清涼寺ヶ谷は、忍性が極楽寺入山以前の弘長元年(1261)に住した新清涼寺があった谷戸と云われています。そもそもやぐらが営まれたのは律宗によるものとも云われているので、そうした観点からは、これら多数のやぐら群からも完全に律宗寺院の谷戸であったのは明らかでしょうか。これまでのところ、確かな証拠は見つかっていないようですが、この地に伝わる清涼寺ヶ谷という字名から、新清涼寺がここにあったと推測されています。
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地図画像④の辺り この裏側にひな壇状地形とやぐら群が存在する |
叡尊教団と新清涼寺
忍性が新清涼寺に入った弘長元年(1261)の翌年、忍性の師である叡尊が西大寺から一時的に鎌倉にやって来ます。半年ほど鎌倉に滞在したようです。 この時、叡尊が釈迦堂に住したそうですが、その釈迦堂には諸説あるものの、ここ新清涼寺の釈迦堂と云われています。それにしても忍性が鎌倉入りした翌年に律宗のリーダーが訪れるという絶好のタイミングです。 まるで忍性が叡尊の関東下向の調整役、もしくは視察役だったかのようにも受け取れますね。 この時、北条重時の後家や北条長時夫妻など、極楽時流北条氏の一族などが叡尊に帰依しています。 ちなみに、忍性は叡尊が鎌倉に訪れた年に泉ヶ谷の多宝寺に入っています。
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漆喰跡なのか、白い部分が多く残されていたやぐら |
燈炉堂と天柱峰
化粧坂には燈炉堂(とうろどう)といって、夜に火が灯され、由比ヶ浜の海上を進む船の目印として灯台の役割を果たしていたものがあったそうです。
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新清涼寺ヶ谷裏山となるハイキングコース尾根 |
ちょうどその辺りと思われるのが、浄智寺に住した竺仙梵僊(じくせんぼんせん)という中国・元からの渡来僧が好んだ場所と云われるこの天柱峰の辺りでしょうか。現在、この辺りからは、海どころか生い茂る木々によって、景色さえも堪能できないので、その伝承が実感しづらい状態ですが、由比ヶ浜は極楽寺グループの管理下だったので、ちょうどこの清涼寺ヶ谷の裏山となる天柱峰の辺りで、浜の管理の一環としてその燈炉堂を営んでいたのが新清涼寺なのかもしれません。
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天柱峰 |
名越竹鼻清涼寺
鎌倉の谷戸のセオリーとして、大抵にして谷戸最奥に寺院、もしくは武士・御家人の邸となっている事が多くみられます。上の地図画像②の地点が谷戸奥地となります。 現在敷地面積の広い大豪邸となっており、そのセオリーの観点から、以前からその場にそれだけの平場があったのか、現代において造成・削平されたのか、興味を惹かれるところです。
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ハイキングコース尾根から見た谷戸最奥の平場 |
ちょうどこの上には古道跡といった感じの切通しが残されています。方向的にも浄智寺方面から清涼寺ヶ谷に通じたものと思われます。それともこの谷戸最奥の地にも通じていたのでしょうか。
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谷戸裏山にある切通し |
『金沢文庫古文書』には「名越竹鼻清涼寺」という寺院名がみられるそうですが、『鎌倉廃寺事典』ではこれを鎌倉の名越に所在していたかどうかも分からないとしつつ、『武蔵風土記』の記述から「竹鼻」というのがどうやら「山の高い端(はな)」という意味であったという解読の経緯を紹介していました。確かに名越という記述が気にかかりますが、もしもこの名越竹鼻清涼寺が、清涼寺ヶ谷にあった新清涼寺であれば、この山の高い端となる地図画像②の谷戸最奥の平場が所在地だったのかもしれません。
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探索期間 2011年8月~
記事作成 2013年6月11日
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