2013年6月15日土曜日

北条氏


北条氏系譜


治承四年(1180)源頼朝が旗上げをした際、北条氏の祖である時政がこれに参戦します。この時の北条一族メンバーが『吾妻鏡』に記されていますが、時政と息子である宗時と義時に、時政の従兄弟とも甥とも伝えられる平六時定の4人でした。ここから察するに、政子や時房(当時6歳)などといった非戦闘員である女性・子供を足しても、当時の時政の家族は10人ぐらいだったでしょうか。それから100年以上経った鎌倉時代末期において、北条一族の数は数千人、もしくはどんなに少なく見積もっても千人以上はいたと推測されています。鎌倉時代、全国に2000家以上あったと云われる武士・御家人達の頂点に北条氏は君臨していました。

北条氏の主要人物系図 クリックして大きな画像で見れます
赤○は執権に就いた人物で番号は代数 青○は連署に就いた人物
細川重男著『鎌倉幕府の滅亡』を参照して作成しました

得宗


北条氏の嫡流・家督を得宗(徳崇)と云います。しかし、何故得宗(徳崇)と云うのか具体的な事はわかっていません。細川重男先生の著書によると、得宗(徳崇)とは義時の追号(故人の生前の行いを讃えて贈る称号)ではないかと結論付けていました。実際にも、時頼など主だった一族子孫達は法名(出家した時の名)に徳崇の崇の字を用いています。北条氏嫡流二代目となる義時は、その後の鎌倉幕府の命運を大きく左右する事となる幕府対朝廷の戦い「承久の乱」に天皇の追討宣旨をこうむりながら勝利するという仰天ミラクルを成し遂げます。頼朝と並ぶ武家政権の創始者としても讃えられ、幕府内における北条氏の確固たる地位の礎を築いた人物と言えます。

北条氏得宗家とその他庶流
北条義時法華堂跡

北条氏庶流


そしてこの徳崇(得宗)という追号を与えられた義時の子息世代から主だった庶流が次々と派生します。つまり一族の数が激増します。義時の跡目である北条氏家督を継いだのが泰時で、その他の庶流として、朝時(名越流)、重時(極楽寺流)、政村(政村流)、有時(伊具流)、実康(金沢流)があります。その他にも、義時の弟である時房の子息達から、時盛(佐助流)、時村(時村流)、朝直(大仏流)などなど、それぞれ派生しています。そしてそのまま時代が下るにつれ、庶流が増えていく事となりますが、全てを記す事は専門家でも難しいようです。頼朝政権下に義時が東北方面に多くの所領を獲得していた事や、元寇における九州での警備強化などによって、北から南まで日本中に北条氏が散らばっていた事が情報収集を困難にする要因かもしれせん。流派名は大抵にしてその別業(別荘)の字名に因むので分かりやすいかと思います。

北条氏の主な庶流祖
北条氏の主要人物達が必ずこの辺りを歩いていたであろう宇都宮辻子幕府跡 

執権


源氏将軍がわずか三代で滅びた(滅ぼされた?)ため、その後、京の藤原家から将軍を迎え入れていますが、幕府の実質的なトップとなる職が執権です。執権の次席となる連署といった重要な役職を含め北条氏が代々これらを世襲しています。約150年続いた鎌倉の歴史の中、この執権職に就いたのが16名(もちろん全て北条氏)で、得宗以外の庶流から就任した人物も少なくありません。ただ、庶流から執権職に就いた場合、これは得宗家の跡継ぎが未だ幼いためなどの時間稼ぎであった傾向が強くみられます。あくまで北条氏の家督は得宗家であったようです。つまり得宗家がお殿様で、その他庶流が家来といった感じでしょうか。

得宗家代々の邸跡


別業


主だった北条一族は鎌倉中心部にあるそれぞれの本宅とは別に邸を構えていました。これを別業と云います。別業とは現代語訳すると別荘と言い表されるようですが、現代人の我々の感覚で別荘というと優雅でのん気な印象を受けてしまいます。当時の別荘(別業)は、鎌倉への出入口となる要所にそれぞが防衛を目的とする軍事的要素の強い施設を構えていたという意味合いで専門的な著書・資料などに記されています。『吾妻鏡』では、その別業となる「名越山荘」「極楽寺山荘」「常葉亭」などで将軍や公家・貴族を迎え宴や歌会などが開かれている様子が記されているので、別業の地には、そうした軍事施設だけでなく、貴人を迎えられるだけの豪華な邸に、その他にも寺社などの色々な建物があったようです。また、流派名からもそれぞれが何処に別業を構えていたかが想像つくかと思われます。

常葉にある殿入という字名が残された場所