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山号寺号 金沢山称名寺
建立 正嘉三年改正元元年(1259)
開山 審海
開基 北条実時
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称名寺縁起
真言律宗の別格本山で西大寺末寺です。中世においては極楽寺の末寺でした。金沢流北条氏の実時が正嘉三年改正元元年(1259)に六浦荘金沢郷に建てた念仏の寺にはじまります。 六浦殿と呼ばれた実時の実母が建長六年(1254)に死去していることが『吾妻鏡』にも記されていることから、実時が称名寺を建立した大きな目的は母の菩提を弔うことにあったと考えられています。
また、称名寺開山審海の願文から「両親のため、同庄内金沢郷において一伽藍を建立し称名寺と名付けた」などの記述が発見されたことから、称名寺が実時の両親を供養するための菩提寺であったことがわかっています。
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称名寺境内新宮跡 |
山号である金沢山は「かなざわさん」ではなく「きんたくさん」もしくは「きんたくざん」と読むようです。 執権職に就いた金沢貞顕の肖像画が残されていますが、その貞顕が金泥で松葉唐草文を描いたとても豪華絢爛な狩衣を着ていました。
まさに山号のごとく「金たくさん」といった感じでしたが、金沢家の豊かな財政事情からもひょっとしたらシャレっ気のある語呂合わせなのかと思ってしまいます。
称名寺境内
下画像は横浜市金沢区の地図で、白○の部分が市民の森と記された称名寺境内です。近くにある八景島シーパラダイスや野島などと差ほど変わらぬ敷地面積を持つことが伝わるかと思います。
ちなみに、ここ六浦・金沢は往時では鎌倉の範囲内です。したがって鎌倉の東境に位置する称名寺は色々な意味で重要な施設でもあったのでしょう。
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境内中心部では往時からある苑池を擁する庭園の様相がそのまま残されていて、平橋や反橋といった細部にいたるまで再現されています。この広大な池の周りを散策できるようになっています。
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上画像は鎌倉期に描かれた称名寺境内絵図から比定するに、行堂や経蔵などがあった場所です。往時にあった多くの塔頭・支院跡がこのようにほぼ旧態を保ちつつ残されており、なおかつ裏山はハイキングコースとして整備されています。往時の寺域をほぼ全て堪能できます。
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ハイキングコースとして整備された裏山丘陵部 |
裏山である金沢山の丘陵頂部からは金沢の街を見渡せます。直下に称名寺、左奥にシーパラ、中央奥辺りは当時では三艘という字名の大型船が停泊できる港位置です。
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八角堂広場からの展望 |
上記した通り、称名寺は律宗のお寺です。鎌倉の海岸を管理していた本家の極楽寺と同じく、ここ称名寺も金沢の港を支配下に置いていました。
そんなことからも、ここ八角堂広場という丘陵頂部が、当時からこうして港を見渡せる用途のための平場であったと考える方が自然でしょうか。
審海と忍性
開基である実時がここ称名寺に住する僧侶を探すため、極楽寺開山の忍性に相談したところ、忍性が常陸の三村山にいた審海を推挙したことからこの審海が称名寺の開山(正確には中興開山か)として迎えられました。
おもしろいことに、この審海が知人に宛てた書状にこの時の様子が記されています。
文永四年(1267)8月上旬に経典を受け取りに多宝寺(泉ヶ谷)へ訪れた際、忍性から称名寺入山を強く要請され、再三辞退したものの9月下旬より称名寺に移ることとなったとあります。
なんと、審海は称名寺へは行きたくなかったようで、しかもほぼ強制的に称名寺の住職として入れられたようです。 経典を取りに来させる辺りから既に忍性の思惑通りのような気もしますが、忍性も律宗を、そして叡尊教団を鎌倉で確立させるために必死だったのでしょう。
審海が入山を辞退した理由として、審海のいた下野薬師寺が関東屈指の学問寺として栄えていたこと、また、当時の称名寺が鎌倉時代末期ほど栄えていなかった点などが考えられます。
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境内丘陵部寄りにある歴代住職墓 |
その後、称名寺二世長老となる釼阿の時代に、称名寺は大々的な造成を行い大寺院となります。惣門から連なる道沿いに残された寺前、町屋という字名からも称名寺近辺が賑わっていたことがうかがえます。
金沢文庫
実時、顕時、貞顕と金沢家代々がコレクションしていた膨大な数の書物が納められた文庫が、称名寺に隣接する金沢邸跡とも云われるこの地にありました。 それら書物の多くはその後に戦国大名らによって持ち運ばれてしまいましたが、貞顕の書状など、鎌倉の歴史を解明する重要な資料が未だに残されています。
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金沢邸跡 金沢文庫 |
現在は資料館のような形で現代の金沢文庫が建てられていて、レプリカの仏像や当時の資料などが展示されています。
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カテゴリー 探索記事(エリア別 六浦・金沢)
記事作成 2013年6月18日