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極楽寺地区にある馬場ヶ谷は、奥行きのある細長い形状をしています。極楽寺から大仏坂方面に向かう事が出来ます。谷戸の形状に加え民家が所狭しと並んでいるため、窮屈でとても狭い第一印象を感じます。
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馬場ヶ谷 このように狭い道がどこまでも続いている |
しかし『極楽寺境内絵図』にも描かれている浄土院や尼寺の跡地と推定される場所などでは、意外な程に道から丘陵部にかけてスペースが開けていて立派な小谷戸を形成していました。絵図には上記した浄土院、尼寺の他に、山王窟、稲荷、観智院、普賢院、精進院、十二所権現などの寺院名が記されています。もちろんこれら寺院全て現在何も残されていません。
極楽寺境内絵図 馬場ヶ谷 |
馬場ヶ谷もその他極楽寺地区同様、崩落防止に伴う工事によって丘陵部側は完全に跡形もありませんが、地形形状から何となく寺院跡ではないかと思われる箇所もいくつか見つける事ができます。
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境内絵図から推定するに、普賢院・精進院辺り |
馬場ヶ谷の伝承
馬場ヶ谷では「忍性が馬の治療院で治った馬の調教を行った」「武士の馬術稽古場であった」などの伝承が残っています。実際に訪れて実感しましたが、確かに何処までも一直線に伸びるこの谷戸の形状は馬を走らせるには最適なのかもしれません。
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切通し旧道の趣きを感じられた箇所 カーブしながら登り坂となっていく |
また、『吾妻鏡』によると、弘長元年(1261)に宋尊親王等が北条重時の極楽寺山荘に招かれ笠懸(走る馬上から弓矢で的を射る競技)などを見学している記事がみられますが、それがここ極楽寺の馬場ヶ谷であった可能性が高いと考えられています。この時まだ太郎殿と呼ばれていた10歳の時宗(八代執権)が小笠懸競技で見事に的を射抜き、父である時頼が「さすが得宗家嫡子の器」と大喜びしたそうです。 時宗が後の幕政を担う存在として一族から大切にされていた雰囲気が伝わってくるような吾妻鏡の記事です。また、馬場ヶ谷では「がらがら」「かがみどこ」「びせんど」という馬場にちなんだ字名が残されているそうです。ただ、現在そうした住居表示などはされていないので、何処が何処かなのかは全く分かりません。
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尼寺と忍性
『極楽寺境内絵図』に描かれている各寺院にはそれぞれ詳細な寺院名が記されていますが、馬場ヶ谷に描かれた尼寺だけは寺院名が伝わらなかったのか、そのまま「尼寺」と表記されています。 『金沢文庫文書』金沢貞顕状に、極楽寺から出火した火事が法花寺にも燃え移ったという内容が記されています。 その法花寺がここ馬場ヶ谷の尼寺であった可能性が考えられているようです。
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尼寺のあったとされる小谷戸 |
ところで、永仁六年(1298)幕府が34の尼寺を将軍家祈祷所に指定しています。これは実は、前年に御家人の借金を帳消しにするという有名な永仁の徳政令が発布された事にともない、武士達が律寺に押し入り狼藉を働いた事に端を発したものでした。この時、尼寺にも被害が及んだようで、そうした尼寺への武士の乱入を抑止するために、忍性がそれら尼寺を将軍家祈祷所に指定するよう幕府に願い出ています。将軍家祈祷所に指定されるという事は、幕府から安全を保証してもらうという事になります。しかも永仁六年(1298)の3月に申請し、4月には認定許可が下りるという現代の法案整備の常識からは考えられないスピードです。 これも忍性の幕府への影響力なのでしょうか、忍性の救済活動に努めるという人柄の良さそうな「ほのぼの感」から一転、急に大物政治家のような敏腕ぶりを発揮するという相変わらずの二面性を垣間見たような気がしました。ここ馬場ヶ谷にあった尼寺もそうした恩恵に預かったものと思われます。 忍性の記事でも触れましたが、律宗は浄地といって、金貸し業も営んでいたので、徳政令の発布とともに武士が押し入ってきたという事は、それら武士達にも随分とお金を貸していたという事なのでしょうか。
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長谷配水池付近からの展望 |
鎌倉でよくある事ですが、いつの間にか高台となっていて、思わぬ景色を眺められる状況に出会います。ここ馬場ヶ谷も大仏坂に近づいた谷戸奥からは、上画像のような山頂から眺めたような景色を堪能できます。道はこのまま大仏裏ハイキングコースに連なっていて、逆に向こうからこちら馬場ヶ谷にやってくる人も見受けられます。
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カテゴリー 探索記事(エリア別 極楽寺地区)
記事作成 2013年6月2日