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金沢文庫縁起
金沢文庫は称名寺の創建(1259年)から10年後ぐらいには存在していたようです。金沢流北条氏の実時が書物を書写したり、京に人を派遣して写本をつくらせたりと収書を行っていたことからはじまります。一方で実時の孫にあたる貞顕は京都に赴任する六波羅探題という職を務めた時期もあるので、京都において直々に収書を行っています。金沢家が代々集めた膨大な書がこの地に保管されていました。
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現代の金沢文庫 |
面白いことに、この金沢家の祖父と孫では収書における目的が異なるようで、金沢家の基礎を築いた実時は幕府の重臣として必要な関連書物、そして貞顕は公家社会を理解するための関連書物が多かったそうです。
一代で駆け上がるように出世した実時は幕府内における政治家としての教養を必死で勉強し、既に幕府内において確固たる地位からスタートした貞顕は京における公家社会との付き合い方を研究していたようです。
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称名寺境内と金沢文庫を繋ぐトンネル |
文庫の主な文献リストとして、福建省から持ち帰った仏教に関するあらゆる書物を集めた一大業書『宋版一切経』に、信西が編纂した『法曹類林』や藤原定家の姉の回想録『たまきはる』に『百錬抄』などがあります。
金沢文庫に眠るこれら多くの書物は現在では一級の美術品とされていて、工芸品・古書・古文書など2万点の所蔵がありますが、それでもこれまでにかなりの書物が散在したようで、特に徳川家康が『吾妻鏡』の愛読者であったことは有名です。その他に、室町幕府、上杉氏、小田原北条氏、豊臣秀吉、加賀前田家などが特にゴッソリと持っていってしまったそうです。
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ハイキングコースから見た金沢文庫がある谷戸 |
『吾妻鏡』はこの金沢家が編纂に関与したとも推測されていますが、これは小田原北条氏に伝来した『吾妻鏡』写本に応永十一年(1404)に金沢文庫本を書写したことを記す本奥書があったことから由来します。
しかしながら、問注所執事の三善氏及びその系列が中心にいたという説や、そもそも政界の中心にいた金沢家が本の編纂などしている暇などなかった説があります。
御所ヶ谷 文庫ヶ谷
称名寺の境内案内板には、この辺り一帯を文庫ヶ谷と云うとありましたが、一方で『新編鎌倉志』では金沢文庫のある谷戸を御所ヶ谷と記しています。 時代で呼称が違ったのか、もしくは称名寺全体の谷戸を文庫ヶ谷と呼び、その支谷となる金沢文庫の谷を御所ヶ谷と云うのかもしれません。
称名寺全体図 赤○が御所ヶ谷 |
鎌倉志では阿弥陀院の後の切通しを出たところにある畑を御所ヶ谷と云うとあります。前回の記事でも触れましたが下画像の称名寺と金沢文庫を繋ぐ隋道が鎌倉志の云う切通しと思われます。
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当時からある称名寺と金沢文庫を繋ぐ隋道 |
鎌倉市にもいくつか御所という字名の付く地域がありますが、とにかく御所というからには、かなり身分の高い人物がそこに居住していたと考えられます。
亀山天皇 鎌倉公方
御所ヶ谷の由来には二説あって、亀山天皇(鎌倉時代後期在任)が金沢・称名寺を訪れた際に作られた御所がここにあったという説と、鎌倉公方・足利持氏の邸がここにあったという説があるようです。
どちらかといえば、鎌倉公方の邸があった説の方が現実的ですが、亀山天皇が称名寺を勅願所としたり、称名寺惣門近くにある「亀井」という井戸の名前が亀山天皇に由来するといった伝承が残されています。
どちらが真相なのか今となっては知る由もありませんが、亀山天皇(鎌倉期)と鎌倉公方(南北朝期)では少し時代が異なるので、もしかしたらどちらでもあるのが真相ではないでしょうか。つまり金沢家が天皇のために用意した豪華な御所を、幕府滅亡後に足利氏が自分の邸としたのかもしれません。
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御所ヶ谷の裏山丘陵部 |
御所ヶ谷の丘陵部頂部に平場があります。台の広場と称する公園のような形で整備されていますが、これは公園として整備したというより、元々ここに平場があったので公園としたのではないかと思われます。
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台の広場近辺 |
丘陵部崖面にはひな壇状の地形もみられます。天皇の御所かあったかどうかは別としても金沢邸がここにあったのは確かなので、それに付随する城郭の名残りかもしれません。また、ここから近い住宅地には「城山」という住居表示がみられました。六浦を代表する字名に「白山」があるので、当て字が変わっただけかもしれませんが、北条氏、足利氏と、時代を代表する大物の邸があった事を考えれば、この辺りの地形に城としてのの造作が成されていても不思議ではないと思いました。
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カテゴリー 探索記事(エリア別 六浦・金沢)
記事作成 2013年6月20日