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山号寺号 大異山高徳院清浄泉寺
建立 暦仁元年(1238)~
勧進 浄光
中興 顕誉祐天
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大仏殿縁起
開山・開基共に不明で、勧進役(寄附を募る)は浄光。江戸期には朽ち果てた姿となった大仏の再興に尽力したのが増上寺の顕誉祐天(けんよゆうてん)。元々は大仏殿と呼ばれる像を覆う堂がありましたが、地震や津波などの度重なる災害によって、明応七年(1498)の倒壊を最後に大仏は現在のように露坐となりました。
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銅造阿弥陀如来坐像
高徳院の本尊である銅造阿弥陀如来坐像は、腹前で弥陀定印を結ぶ手の印相表現から西方極楽浄土の教主阿弥陀如来であると考えられています。高さ11.39mで重量は122tです。東大寺の大仏が二度の火災により損傷し、その大部分が江戸期の再建であるのに対し、鎌倉大仏はほぼ造立当初の姿を保っています。『吾妻鏡』によるところ「金銅八丈の釈迦如来像」鋳造が建長四年(1252)に開始されたとあります。が、しかしながらその完成期及び製造方法など、不明な点が多くいくつかの謎が残されています。
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大仏の謎
『吾妻鏡』に残された大仏造営の記録をたどってまとめると以下のようになります。
暦仁元年(1238)三月、浄光が勧進役として動き始める。
暦仁元年(1238)五月、大仏の頭が据え付けられる。
仁治二年(1241)三月、大仏殿の上棟の儀が行われる。
寛元元年(1243)六月、八丈余りの阿弥陀像を安置し今日その供養を行う。
建長四年(1252)八月、金銅製の大仏が造られ始めた。
最後の「金銅製の大仏が造られ始めた」?が気になりますよね。『東関紀行』の仁治三年(1242)の記事に「東大寺の大仏と異なり木製であった」と記されているそうです。ですから寛元元年(1243)の供養時は木製で、その9年後となる建長四年(1252)には金銅製になっていることになります。なんと当初は木製で、いつのまにか金銅製になっていたようです。何があったんでしょう。これには主な仮説として以下の2つの説が挙げられています。
①「台風などの災害により崩壊したため、金銅製を建立した」
②「元々、木製は金銅製の鋳型として造られていた」
これだけのモノを造る訳ですから、とてつもなく大勢の人が関わったと思います。それなのにこの辺りの事情を記したものが何も残されていないという事は、特筆すべき事ではなかった、つまり②の当初から鋳型として木製が造られていた、最初から企画通りだったと考えるべきなのかもしれません。
それからもう一つの謎が、誰が造ったのか、厳密にいうと、誰が主体となって大仏を造ったのかという点がはっきりと分かっていません。ただこちらは、以下の理由からやはり少なくとも鎌倉幕府が関与していた可能性が高いようです。
①建長七年(1255)に幕府の命により大仏に人倫売買銭が寄進されていること
②弘安七年(1284)に極楽寺の忍性が大仏殿別当に任じられていること
③元徳二年(1330)に金沢貞顕が関東大仏造営料唐船を派遣していること
①の「人倫売買銭」は何でしょう?申し訳ないですが私では分かりません。とにかく幕府の命により、大仏造営のための金銭がどこからか支払われているようです。そして科学的な見地から、大仏を構成する含有元素の割合より銅鏡や銅銭が使われたとする研究結果があるようです。ということは③の唐船派遣はどうやら中国から銅銭を仕入れていたようですね。
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意外に猫背なのが親近感がわく |
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ウルトラマンの後ろにファスナーが付いていることに気付いた子供の頃を思い出す |
享保十八年(1733)当時の大仏は、頭部から螺髪(らほつ)が抜け落ち、背中の扉も無いために鳩・雀等が入り込んで巣を作り、破損した穴からは雨水が入り込み、衣の壁には常時水が溜まっているという状態であったそうです。現代のように、拝観料をとってビジネスをするという発想が江戸時代にはなかったのでしょうか。
発掘調査の結果
鎌倉市教育委員会の『史跡鎌倉大仏殿跡保存管理計画書』(以下調査報告書)によると、大仏製造の際にできる順次土を盛り上げた傾斜堆積層が確認されています。また、礎石の下にある根固めという遺構が確認されていて、なおかつその根固めが像の周囲を取り囲んでいたことからこれが大仏殿であると判断されています。
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境内に残された大仏殿の礎石 |
直径2m程の安山岩製の礎石が50個余り境内に散在しています。これらがその根固めの上に設置されていたと考えられています。建長寺や極楽寺でみられる盤状の礎石であることから、大仏殿は中国より導入された新しい建築様式による建物であったと推測されています。
四神相応の地
大仏の東側丘陵部を御輿ヶ嶽(みこしがたけ)、背後丘陵部を後光山と云います。大仏から見て、大仏の背後に山(後光山)左手に川(稲瀬川)右手に道(大仏坂)手前に平野(湿地帯)と、まさしく大仏殿の地が四神相応であることを調査報告書では言及していました。
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新編鎌倉志 大仏項挿絵 当時は稲瀬川が流れていた |
また、武家政権と東国民衆の守護仏を造立するための適地(西方浄土)として選ばれたものと考えられるとありました。壮大なプロジェクトだったという事が伝わってくるようです。
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境内入口には庚申塔などの石塔が置かれていました。大仏坂がすぐ近くにあるので当たり前でしょうか。
忍性と大仏の謎
最後に、極楽寺の忍性の行動をたどると、ちょっと面白い事が判明します。上記したように弘安七年(1284)に大仏殿別当に任命されている忍性ですが、未だ鎌倉に来る以前の若かりし頃、寛元元年(1243)に関東に一時的に下向しています。その寛元元年(1243)六月とは『吾妻鏡』によるところの「八丈余りの阿弥陀像を安置し今日その供養を行う」時です。忍性は他には用事はないといった感じでこの後すぐ七月には西大寺に戻っています。また、建長四年(1252)に本格的な関東下向となり、常陸の三村寺を中心に布教活動を始めますが、何とこの年は建長四年(1252)「金銅製の大仏が造られ始めた」時です。上記した寛元元年(1243)にこの建長四年(1252)と、どちらもタイミングが良すぎますが偶然でしょうか。大仏の節目となる時に限って忍性が関東にやって来ています。
弘長元年(1261)に新清涼寺に住したのが忍性の鎌倉入りとされています。これら忍性のタイミングの良さから考えると、もしかしたら、この時に現在の大仏である金銅製が完成したのではないかと考えてしまいます。ただ、忍性の鎌倉入りも、正嘉元年(1257)に既に金沢の浄源寺に住していたという説もあって不確かです。とにかくこの「忍性の法則」に従うと、正嘉元年(1257)~弘長元年(1261)に大仏が一応の完成をみたと考えたくもなりますが、いかがでしょうか。
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小・中学校と遠足で鎌倉に来た事を思い出す |
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探索期間 2013年5月
記事作成 2013年7月11日