2013年7月19日金曜日

日蓮宗名越寺社


伝承を共有する三社


名越は日蓮の布教の場であったため、日蓮宗のお寺が多く所在しています。日蓮が安房から鎌倉にやって来て初めて営んだ草庵の地という伝承が、安国論寺・妙法寺・長勝寺の三社それぞれに残されています。また、妙法寺と長勝寺が京都本圀寺の旧跡として伝わっています。そして更に、上記した三社それぞれに松葉ヶ谷法難跡の伝承が残されています。何がどうなったらこんなややこしいことになったのでしょう。

Google Map 名越

今回取り上げたこの日蓮宗名越寺社が所在する辺りを松葉ヶ谷と云います。『かまくら子ども風土記』によると、松葉ヶ谷はもとは的場ヶ谷と呼ばれていたそうなので、この地では弓の稽古などが行われていたようです。
鎌倉市の調査報告書では、安国論寺と妙法寺の辺りを松葉ヶ谷、長勝寺の辺りを経師ヶ谷と指していましたが、長勝寺の山門には松葉ヶ谷と記してありました。

化生窟


安国論寺から谷戸の奥へ行くと、日蓮が妖怪を退治したと伝えられる化生窟(けしょうのいわや)という横穴と、日蓮が立正安国論を執筆した時に使ったと云われる御硯水という井戸が残されています。化生窟は奥がコンクリートで塞がれています。もしかしたらやぐらのような横穴ではなく、奥行きのある洞窟のようなものだったのかもしれません。

化生窟
御硯水

松葉ヶ谷法難


松葉ヶ谷法難とは、日蓮が住む松葉ヶ谷にあった草庵が焼き討ちされた事件で、この時日蓮は3匹の白い猿に連れられ洞窟に隠れ難を逃れたという伝承です。この災難から日蓮を救った白い猿は帝釈天の使いだとされているそうです。更に名越坂にも近い法性寺は、日蓮がその法難から逃れた避難先であるという伝承が残されています。

日蓮が焼き討ちから批難した場所と伝わる南面窟 安国論寺

以下、『かまくら子ども風土記』に記されていた松葉ヶ谷法難の伝承
白い猿が3匹、どこからともなく現れ、上人(日蓮)の衣にすがり、袖を引いて表の方へ出て歩き始めますと、大きな洞窟の前に出ました。そのとき、麓(山の)の庵(日蓮の)の方で割れるような大声とともに、たい松の火が20や30もちらついて見えました。何事かと思う間もなく、草庵に火をつけたらしく、火の手はたちまち燃え上がり、人々の叫び声が手にとるように聞こえてきました。洞窟の前に立ってこのありさまを見ていた日蓮は、猿の手をとって洞窟の奥深く入り込みました。
上記しましたが、安国論寺・妙法寺・長勝寺のそれぞれにこの松葉ヶ谷法難跡の伝承が残されています。そして法性寺はその避難先と云われています。

松葉ヶ谷法難跡を探せ


さて、この伝承からどのお寺が本当の松葉ヶ谷法難跡なのかを検証してみましょう。「洞窟の奥深く入り込みました」という記述からも寺域付近に洞窟、もしくはやぐらや横穴といった類のものがないと話しが成り立ちませんが、まず、長勝寺には一切そのような窟穴がみられません。
そして妙法寺には化粧窟という横穴がありますが、境内にある松葉ヶ谷御小庵跡とされる地がその窟穴より高い位置にあります。「麓の庵の方で~」という記述から、日蓮が高い場所から庵を見下ろしているので、洞窟が庵より高い場所に位置しなければなりません。よって妙法寺は位置関係が当てはまりません。
したがって、安国論寺の裏山山腹にある日蓮が避難したと云われる南面窟が消去法から妥当かと思われます。
が、しかしながら「麓の庵の方で~」「~たい松の火が20や30もちらついて見えました」という記述からは、庵と洞窟の位置関係にはそれなりの高低差や距離感が感じられます。安国論寺に行ったことのある方なら分かってもらえると思いますが、南面窟と御小庵がかなり近接しています。たい松がちらついて見えるという表現にはならないような気がします。
ということで、しっくりくる候補が見当たりませんが、法難の避難先と云われる法性寺は、山の斜面にかけて本堂や客殿が所在するうえに、 洞窟という表現に当てはまるか分かりませんが、お猿畑山やぐら群があります。「山の麓」「たい松がちらついて見えました」「洞窟に入っていきました」といった伝承の表現に最も近い条件を持っているように思えます。

法性寺山王権現社からの展望

伝承の検証


その他に、日蓮を連れ出したと云われるのが猿ですが、そもそも猿が鎌倉にいたのでしょうか? 昔だからいたんじゃない?、とアバウトに考えることもできますが、実は小坪の住吉城跡丘陵でこんな看板を見つけた事があります。面白かったので思わずその時写真を撮っていました。
現在、住吉城跡の主郭部分だったと考えられる丘陵頂部にはマンションが建設されてしまってますが、この看板を見る限り、少なくとも比較的近年までその姿を見かけた人ぐらいはいたのかと思われます。ですから、近現代でもいたのだから700年も800年も昔の鎌倉なら猿がいてもおかしくなさそうです。

そしてもうひとつこちら「白い猿が3匹、どこからともなく現れ、上人の衣にすがり、袖を引いて表の方へ出て歩き始め~」「日蓮は、猿の手をとって洞窟の奥深く入り込みました」動物好きの人ならうらやむ程に出会ったばかりの猿と親しそうにしている日蓮さんですが、猿がそんな人間のような行動が出来るのでしょうか。これは、実は私も、猿ではありませんが、猫にガイドのごとく先導されたことがあります。
これは妙本寺での出来事です。私が勝手に讃岐さんと呼んでる猫ですが、境内を案内された事があります。(詳しくはこちらのぺージで)したがって、話すことは出来なくとも動物もこうやって人間と何かしらのコミュニケーションが出来るようです。ということで、伝承は事実として十分に有り得る話しかと思われます。
・・ちょっとこの猿と猫のくだりは必要だったのかと自分でも疑問に思います。そもそも帝釈天の使いと云われる猿が本物のただの猿では困ってしまいますよね。


松葉ヶ谷法難は何故起きたのか


日蓮は随分と他宗へのネガティブ・キャンペーンを行っていたようなので、そんな事からか、松葉ヶ谷の法難は色々な勢力から恨みを買ったことによる結果だと思われます。ちなみに日蓮の他宗への批難の一例として、忍性などの記事でよく引用させていただいた松尾剛次先生の著書にいくつか紹介されていました。
念仏宗(浄土宗)に対しては「念仏を信じると無間地獄に堕ちるぞ」
真言宗に対して「真言は亡国の原因である」
禅宗に対して「禅は天魔の行為である」
律宗に対して「律は国の賊である」
凄いですね、自分の教え以外は全て悪であるといった感じで日蓮は他宗を批難しています。そりゃ恨みを買うだろうと思う一方で、自分の信念のためなら全てを敵にまわしてもかまわないといった日蓮の壮絶な生き様が伝わってくるようです。なかなか出来ませんよね、日蓮が現代でも人気なのが何となく分かるような気がしました。


日蓮と名越尼


日蓮の信者の中に「なごえの尼」と呼ばれる名越流北条氏の関係者と考えられる女性信者がいたようです。
資料には北条政村と並んで記されていたりもするので、かなりの大物のようです。この名越尼が、日蓮が佐渡へ配流されている間に多くの信者を引き連れて改宗しています。鎌倉へ帰ってきてそれを知った日蓮は「欲深く、臆病で、しかも智者ぶった者」と名越尼一同を罵っています。
名越流北条氏に改宗されたとなると、これは大きなスポンサーに手を引かれたということになるので、かなりの痛手だったのでしょう。気持ちは分かりますが僧侶とは思えぬ日蓮の気性の激しい人間性が伝わってくるようです。が、しかしこれも日蓮の魅力の一つでしょうか。
日蓮宗のお寺によく日蓮の像が置かれています。何も知らなければ、天下統一でも果たした武将の像かと思う程に力強いものがほとんどです。まさにイメージにピッタリかもしれません。

日蓮像と四天王像 長勝寺


日蓮宗名越寺社の縁起


安国論寺は、日蓮が立正安国論を執筆したと云われる御法窟のそばに、日朗が「安国論窟寺」を建て、更に池上本門寺の日現が要法寺を建て、後にこの二寺が合わさって安国論寺となったと『かまくら子ども風土記』にありました。
ですから安国論寺の創建はこの二寺が合わさった時、もしくは日朗が建てたと云われる安国論窟寺の時となるのだと思われますが、安国論寺は日蓮が庵を営んだという伝承を寺縁起としています。
また長勝寺では本圀寺旧跡としながらも、本圀寺より前にこの地で日蓮が庵を営んでいたという伝承からその時を寺の開山としています。本圀寺というお寺が長勝寺より前にあったんでしょ?・・と疑問に思いますがそういうことなんだそうです。
安国論寺・長勝寺はどうやら開祖がその地にいたという伝承をお寺の創建年月日としているようです。鎌倉市の寺案内板にもそう記されているので、お寺の創建とは必ずしもお寺自体がその時になくともいいようです。こちらもややこしいですね。



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