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山号寺号 福寿山能仁寺
建立 永徳二年(1382)
開山 方崖元圭
開基 上杉憲方
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能仁寺があった谷戸 |
能仁寺縁起
能仁寺跡は京急金沢八景駅から歩いてすぐの場所にあります。関東管領として知られる上杉憲方により永徳二年(1382)~三年(1383)に創建されました。当時は諸山に列しています。室町期の建長寺末寺で関東管領が創建に関わっているので、それは大そう見事な禅寺だったのではないでしょうか。
かながわ考古学財団『上行事裏遺跡』には、能仁寺は「七堂伽藍を有した」「上杉氏の六浦支配の宗教的中核であった」と記されています。六浦における関東管領上杉氏の一大拠点であったのでしょう。上杉憲方は明月院の開基としても知られています。憲方の墓と伝わる明月院やぐらや極楽寺坂の層塔など見事で貴重な史跡が現在に残されていますが、彼の誇っていた権力と鎌倉(関東)における影響力が伝わってくるようです。天正十九年(1591)の『建長寺文書』に「能仁寺」の記載がみられますが、貞亨二年(1685)の『新編鎌倉志』には「旧蹟」と記されています。ですからこの期間にどうやら能仁寺は廃絶したようです。
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伝上杉憲方墓 明月院やぐら |
オヤシキ谷戸
能仁寺があった谷戸を「オヤシキ」と呼ぶそうです。お寺がオヤシキと呼ばれたとは思えないので、金沢藩の陣屋がここにあったことにその名が由来すると思われます。徳川綱吉の御用人から若年寄に出世し大名となった米倉昌尹から四代目となる米倉忠仰が享保七年(1722)にこのオヤシキ谷戸に陣屋を構えました。
その際にこのオヤシキ谷戸にあった能仁寺の塔頭とも云われる泥牛庵と慶蔵院が移転させられています。ですからどちらかというと、オヤシキ谷戸は金沢藩の陣屋跡として知られているようです。
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Google Map オヤシキ谷戸 ①国道16号 ②泥牛庵(御茶山) ③表門 ④京急金沢八景駅 ⑤やぐら群 ⑥笠森稲荷神社 ⑦撮影位置 ⑧裏口 |
上地図画像⑤の辺りがコンクリート舗装されているのが分かるでしょうか、調査報告書によると、あの壁面一帯にやぐらが施されていたそうです。20基近く確認されています。そして地図画像③が陣屋の表門、⑧が裏口とされています。この③と⑧に限っては厳密な位置が分からないので、大体こちらの方に出入口があったと考えてください。画像②の泥牛庵は御茶山と呼ばれた藩主の見晴らし台であったそうです。これらのことから鎌倉寺社のセオリーから察する本堂・拝殿位置は、表門③が能仁寺の山門であったとすれば⑥⑦辺り、裏門⑧が山門であれば⑤⑥辺りにあったと考えるのが妥当でしょうか。ちなみに⑦は今回使用したオヤシキ谷戸を撮影したポイントです。
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撮影位置から眺めた景色 ①京急線路 ②泥牛庵 ③金龍禅院裏山 ④裏口に通じる道 |
笠森稲荷大明神
この谷戸で唯一旧態が残されている箇所が上地図画像⑥の辺りで笠森稲荷神社がある場所です。この神社に関する資料が見当たりませんでした。他地域にある笠森神社の縁起からは、どうやら近世に流行したものであるようです。ですから能仁寺とは関係がないように思われます。ただ、住宅街より一段高くなった場所にこうした平場が造成されています。もしかしたら中世からの造作かもしれないと考えてしまいます。
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笠森稲荷大明神 |
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神社平場から谷戸を眺めたもの 地上より高い位置にあるのが分かるでしょうか |
能仁寺裏山
上行寺、浄源寺跡、円通寺跡などからこのオヤシキ谷戸の裏山部分へアクセスできます。この辺りを権現山と云うそうです。下画像は能仁寺裏側からも近い尾根です。
地図画像⑦の辺りではここから谷戸へ下りていく道筋とも思える掘割状が確認できます。しかしすぐその先にはコンクリートの壁が施されていて詳細は不明です。
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さらに地図画像⑤⑥のやぐらと笠森稲荷神社の裏側では明確なひな壇状地形が確認できます。権現山から連なる御伊勢山と、この辺り一帯で石切り跡がみられますが、この場所はそれだけではない雰囲気を醸し出していました。地形があまりにもはっきりしているので、近世の造作なのかもしれません。
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ひな壇状地形 通行路幅程度の平場が連続する |
また、こちらはお隣の谷戸にある円通寺と裏山を共有している箇所なので、どちらの造作跡なのか何とも言えない部分もありますが、瑞泉寺など鎌倉寺社の裏山で何度か見かけたことのある人の手が加わったような大きめな石があった他、よく分からない造作が底面にみられました。
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人為的な造作が施された大きめな石 |
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何なのか分からないが目的意識を感じさせる造作 |
引越村
『新編鎌倉志』ではここオヤシキ谷戸を「引越村」と記しています。永享の乱の際、戦況不利に陥った鎌倉公方足利持氏が鎌倉御所からこちらの称名寺に逃れてきます。この時金沢周辺で合戦が行われ、持氏側で戦っていた海老名尾張入道が六浦引越の道場で自刃したとされています。その引越の道場が泥牛庵とも浄源寺とも云われているそうです。どちらにしろこの辺りですね。
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泥牛庵裏山から眺めた景色 国道やシーサイドラインが見える |
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カテゴリー 探索記事(エリア別 六浦・金沢)
記事作成 2013年9月30日