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瀬戸神社縁起
社伝によると、治承四年(1180)に源頼朝が伊豆三島明神(三嶋大社)を勧請したのがはじまりとされています。瀬戸神社としてはさらに、古代から海の神として祀られていたと推測しているようです。また現在の社殿は寛政十二年(1800)に建造されたものであるそうです。
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瀬戸神社遠景 神社の周りだけ旧態が残されています。 |
新編鎌倉志から見た瀬戸神社
下画像は『新編鎌倉志』の瀬戸項挿絵です。江戸時代の瀬戸神社が描かれています。現在は瀬戸ノ内海が埋め立てられたので、その存在意義が薄れましたが、やはり称名寺へと向かう瀬戸橋(絵図⑤)の存在感がこの時代までは際立っていますね。
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新編鎌倉志 瀬戸項挿絵 ①瀬戸神社 ②蛇混柏 ③神主 ④弁財天 ⑤瀬戸橋 ⑥引越村 |
面白いのが画像②の蛇混柏(じゃびゃくしん)でしょうか。鎌倉寺社でよく見かけるビャクシンの樹が描かれていますが、瀬戸神社境内の案内板に、延宝八年(1680)の台風に転倒した後も朽損せず、新編鎌倉志・江戸名所図絵などにも描かれているとありました。『新編鎌倉志』は貞亨二年(1685)刊行なので、この台風の後に取材・編集作業が行われていたと思われます。そういった視点で絵図を見ると、このビャクシンの樹が倒れているようにも見えますよね。というか絶対倒れたものを描いていると思われます。そして現在、境内には未だそのビャクシンが安置されていました。凄いです、我々は黄門様が見たものと同じ現物を見てるんですね。
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蛇混柏 |
それから画像③の神主と記された建物。これは瀬戸神社の神官として知られる千葉氏の邸だと思われます。瀬戸神社に隣接する空地となっている場所に比定できます。私が訪れた際(2012~2013年)には工事が着工する雰囲気だったので、邸地跡には何か建てられるようです。また、ここから歩いて数十分のところにある嶺松寺跡もその縁起からどうやら千葉氏の邸跡だったようです。
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千葉氏邸跡 |
瀬戸神社と向き合うように国道16号を挟んだ対面にあるのが琵琶島(画像④)です。琵琶島は島の形が琵琶に似ていることからその名が由来すると云われています。
島には北条政子が近江(滋賀県)の竹生島から勧請したと云われる弁財天が祀ってあります。
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琵琶島と弁財天 |
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琵琶島前に広がる平潟湾 |
そして肝心の瀬戸神社境内はというと、絵図には随分と多くの社殿が描かれています。現在、境内には祠が多数祀られていますが、白山堂と東照宮がこちらで合祀されています。
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境内にある祠 |
丘陵部壁面は何故か佐竹砦レベルの絶壁状切岸となっていました。建物かなにかあったんでしょうか。
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丘陵部壁面 |
瀬戸神社では神社でよくみられる祠を安置するのにちょうど良い大きさの掘り込みがいくつかみられます。つまりやぐらを一回り小さくした感じのものです。それ以外に社殿の真裏にコンクリートで塞がれた大きな横穴がありました。参道から連なる社殿中央位置の真裏に施されたもので、しかもこのように塞がれているので、何か特別な感じもします。ただ、これまでのところ鎌倉周辺でコンクリートで塞がれた横穴のほとんどは防空壕の類でした。こちらはどうなんでしょう。
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旅下僧
旅下僧(そのころ流行していた僧形の旅芸人)に扮した兄弟が父の仇を瀬戸神社境内で討ったという講談があったと境内で紹介されていました。これは瀬戸神社が舞台となったお話をただ単に紹介しているのではなく、父の仇と偶然めぐり会える程に当時の瀬戸神社前が多くの人々の往来で賑わっていたという情景を伝えたいようです。
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埋め立てなどで地形ごと変わった部分も多い金沢ですが、人で賑わうといった点では現在もそれほど変わっていないようです。金沢八景駅からも近く、なんといっても国道16号沿いですからね、多くの人が通行しています。
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コンクリート舗装されている瀬戸神社丘陵と前面通りの国道16号 |
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カテゴリー 探索記事(エリア別 六浦・金沢)
記事作成 2013年10月3日