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山号寺号 田谷山定泉寺
建立 天文十三年(1544)
開山 隆継阿闍梨
開基 -
定泉寺縁起
横浜市栄区のHPによると、定泉寺は天文十三年(1544)の創建と伝わっています。境内にある有名な田谷の洞窟は正式名称を田谷山瑜伽洞と云い、全長1kmにも及ぶ人工洞窟で、真言密教の修行場として活用された地底伽藍です。また、境内にあった著書『田谷の洞窟』によれば、古くは古代横穴住居跡、もしくは古墳跡であったとも云われています。そしてさらに、個人的に初耳でしたが、定泉寺は和田義盛(和田合戦)の三男で朝比奈三郎義秀の邸跡でもあるそうです。境内には朝比奈三郎が日夜礼拝していたと伝わる朝比奈弁才天が祀られていました。
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定泉寺 |
『田谷山岩屋万有伝』という古くから伝わる寺伝の書が、関東大震災によって他の古文献と共に散在してしまったそうです。そのため詳しい歴史は失われてしまったようですが、洞窟の原型は鎌倉期からあって、また元寇の際には鶴岡八幡宮の供僧による国家鎮護の祈祷が展開されていたと云われています。
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著書『田谷の洞窟』にあった洞窟全体図 |
田谷の縁起
「田谷の洞窟」の「田谷」とは「田の番小屋のあった所」を意味するそうです。周辺は未だに下画像のように広大な田園風景が広がる地域です。なかなか往時の姿を想像しにくい鎌倉にあって、ここではその「田の番小屋」があった事を偲ばせるかのような情景です。
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田谷 |
『吾妻鏡』現代語訳の4巻で、奥州合戦が終結し頼朝とその御一行らが帰路に着く際「田谷窟」という場所が登場します。これは「たや」と読むのではなく「たっこくのいわや」と読むそうです。現在は「達谷窟」と表記する岩手県平泉にある有名な観光名所を指します。ややこしいですね。吾妻鏡ではこの達谷窟を、坂上田村麻呂や藤原利仁らの将軍が蝦夷の地を征服しようとした時、悪路王ならびに赤頭が砦を構えた岩屋であると記されています。これはだいたい延暦二十年(801)頃の出来事なので、頼朝も遠征のついでのちょっとした史跡めぐりだったのかもしれません。ちょっと話しが遠回りしましたが、この同じ「窟」「岩屋」の類である「達谷窟」が当時は「田谷」と記されていることに何か関連があるのかと思ってしまいましたが、なんの関連性も見つけられませんでした。どうやら何も関係ないようです。
田谷の洞窟
上記しましたが、田谷の洞窟は地底伽藍です。曼荼羅像、羅漢像など多くのレリーフが施されています。そして上の著書画像にもあるように上下三段もの高低差がその地下スペース内に存在します。
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ドーム状の天井 |
細長い道を伝って行くと色々なレリーフが施されたドーム状の広場に出ます。そしてその先の道を行くとまたドーム状の広場が続くといった地下構造が繰り返されます。秩父・西国・四国などの観音霊場を廻っていることになっているようです。
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壁面のレリーフ |
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所々にコースアウトできそうな箇所がありましたが、もう既に大々的な探検チームが洞窟の全貌を把握したそうなので、秘密の抜穴といったものはないようです。ただ、金庫の扉のようなもので塞がれた箇所やどうやってあの穴に入って行くのだろうという興味深い場所が点在するのは確かです。
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光が奥に届かない程の側道 |
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天井部にあった穴 何処へ続くのだろう |
ドーム状の部屋が続く中、一箇所だけ少し異なる形状の空間がありました。ここは確かに伽藍という雰囲気で特別感が伝わってきました。なんでしょう・・
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ある場所に金粉が塗られた他とは雰囲気の異なる豪華なレリーフが施された部屋があります。そこは何故か拝観者に見せないようにしてあります。ご本尊のようなものなんでしょうか。興味のある方はくまなく穴という穴をのぞいて見てください。また、洞窟内は天然のクーラーが効いていて快適です。私が訪れたのが8月ということもあって、洞窟の快適さからしばらくここを出る気がしませんでした。
※ご注意 洞窟内は撮影禁止です。
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探索期間 2013年8月
記事作成 2013年10月12日
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