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関谷洗馬谷
大船の戸塚方面寄りに関谷という場所があります。そこにある洗馬ヶ谷という字名が伝わる辺りに古墳時代末期の横穴墓(以下末期横穴)が残されています。玉縄城が健在だった戦国時代でいうところの城下町にあたるエリア内と思われます。関谷という地名からここには関所があったと考えるのが妥当でしょうか。また洗馬谷という地名も玉縄城時代に馬場として活用されていたことからその名の由来となったようです。
向こうに見える丘陵に洗馬ヶ谷横穴群がある |
洗馬ヶ谷辺り 近くに横穴墓があるとは思えぬ住宅街の様相 |
住宅街の一画にポツンと旧態で残された緑地があります。この中に4基の末期横穴があります。史跡を示す目立たない標識がここに立てられているだけなので、もしかしたらあまり観光客に来てほしくないのかもしれません。
洗馬ヶ谷横穴群のある緑地地帯入口 |
洗馬谷横穴墓
古墳時代末期とはだいたい7~8世紀頃になります。鎌倉時代より数百年前に遡ります。往時の鎌倉市街地中心部では、過密する人口による土地・墓地不足からか、やぐらとして転用された末期横穴もみられますが、ここは土地柄的にそれほど人がいなかったのかもしれません。見た限りここでは古墳時代の横穴墓そのものとして残されているようです。
洗馬ヶ谷横穴墓玄室内 |
やぐらと末期横穴の形状の違いを簡単に言うと、やぐらは四角、末期横穴はアーチ型です。やぐらにも異形態としてアーチ型がありますが、その場合はこの末期横穴墓を転用している可能性が高いようです。四角いやぐらよりこの末期横穴の半円状に岩盤を削る方が難しそうな気がします。古代の方が職人さんのレベルが高かったんでしょうか、不思議です。
ここでは「高棺座」が施されているものが見られます。棺座とは遺体を安置する場所なので、高棺座とはその安置する場所が高い所にあるという意味です。下画像がその高棺座が施された横穴墓です。
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高棺座のある横穴墓 |
画像を少し意図的に切り取っています。全体を掲載しないのは、カマドウマという思い出しただけでも身の毛のよだつ恐ろしい生き物が大群で生息しているのが写ってしまったからです。また、夏季で緑地地帯ということもあるのでしょう、湿気が多いためか、ほとんどの画像に対象物を覆うほどにオーブが写ってしまいます。結構写真を撮ったはずなんですが、オーブとあの虫によって、掲載できるものがわずかになってしまいした。
壁刻画
そして何と言っても、洗馬ヶ谷横穴墓内には壁刻画が残されています。市史では、「人物表現は精神年齢6~7歳程度の幼稚なもの」とありました。一見して児童の落書きのようにも見えますが、150cm~170cmの高さに刻まれているため、成人が施したものと判断したそうです。そんなことから大人が描いた割には、ということで「幼稚なもの」として評価されたようです。これは船に乗り弓を射合っている様子が描かれています。横穴墓に葬られた死者の功績を讃えたものと考えられています。
横穴墓壁刻画 |
そもそもこの1200年以上前の線刻画を見たいと思って来たのですが、そうそう簡単に確認できるものではないようです。よほど周到に食い入るように観察しないとこの絵は浮かんでこないようです。まずは4つある横穴墓のどれに描かれているのかが分かりませんし、また玄室内が真っ暗闇で確認しようがありません。結局分かりませんでした。やみくもにシャッターを押して帰ってからPCで確認してみましたが、これといったものは写っていませんでした。残念です・・
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やみくもに撮った壁面 |
アイヌが関東にいた証拠?
面白い事に、市史ではこの壁面に描かれた人物がアイヌの服装をしているとありました。「アイヌの服装をしている=アイヌ民族」と考えると、この時代には未だアイヌ民族が関東にいたようです。ここはやはり定説通り、西から押し寄せてきた勢力にアイヌなどの日本の原住民民族が北へ北へと追われていったということを示すのでしょうか。『吾妻鏡』では、岩手県平泉にある達谷窟を、坂上田村麻呂や藤原利仁らの将軍が蝦夷の地を征服しようとした時、悪路王ならびに赤頭が砦を構えた岩屋として紹介しています。延暦二十年(801)の話しです。末期横穴が営まれた時代の少し後です。この記述から推測するに、関東にいたアイヌ民族がこの時に岩手県まで追われていたと考えてよさそうですね。
関谷の古道跡
著書・資料などでこの洗馬ヶ谷横穴群の詳細な位置情報を示すものがなかったので、最初に訪れた時、探すのに苦労しました。しかも私は天性の方向音痴であるためなおさらです。道に迷った際、ちょっと面白い場所を発見しました。「反対」と記された板が道沿いに置いてありました。辺りはぎっしりと住宅が建ち並ぶ中、ここはちょうど現在の平均的な大きさの一軒家が3軒ほど建てられる程度の空地となっていました。奥には段差があり掘割状の地形が確認できます。
空地に置かれていた「反対」と記された板 |
空地の奥にあった掘割状 |
気になったので、近くにいたご老公に尋ねたところ、ここは昔からの道跡らしく、宅地開発に次ぐ開発で、現在その旧態を残す道跡がここだけになってしまったそうです。せめてこれ以上の乱開発に歯止めをかける意味合いも含め、地域の皆さんと一緒になってこのように土地開発反対を訴えているそうです。遺跡保存のため土地開発を抑制している鎌倉市ですが、旧市街地中心部以外はどうやら適用外のようです。守ってくれないみたいです。といっても、比較的最近でも政所跡とされるちょ~市街地中心部に大々的な遺跡が見つかったにもかかわらず、あっさりとマンションを建てられているので、鎌倉市も大手デベロッパーにやられっぱなしのようです。どこの地域も同じ悩みを抱えているのでしょうか。歴史を残したいと思う人、そんな事より金儲けの方が大事だと思う人、皆考えはそれぞれです。難しい問題です。ちなみにこの古道跡はどういう道筋だったのでしょう。聞くの忘れた・・
古道跡は真っ直ぐ大船駅に繋がる |
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探索期間 2013年8月
記事作成 2014年1月15日