2014年5月9日金曜日

佐助ヶ谷


佐助ヶ谷は鎌倉の史跡の中でも人気で有名な銭洗弁天佐助稲荷がある谷戸です。佐助ヶ谷と意識しなくとも訪れたことのある方も多いと思います。そして佐助ヶ谷もまた他の鎌倉の谷戸同様に往時では多くの寺社があったようです。今回はその寺院跡となる痕跡を探ってみようと思いました。

佐助ヶ谷

往時の佐助ヶ谷


ということで、以下は『新編鎌倉志』(以下鎌倉志)の佐助ヶ谷項の挿絵に描かれた旧跡を地図画像に示したものです。さらにその下は『鎌倉廃寺事典』(以下廃寺事典)が示す往時の佐助ヶ谷の様相です。それぞれが同じ地形図で示されている訳ではないので、位置的な若干の誤差は生じるものとして、また大雑把で大らかな気持ちで見てください。それにしてもこうして見比べると、それぞれで見解が異なっています。不朽の名作・廃寺事典が鎌倉志の主張をあまり踏襲していいません。

Google Map 佐助ヶ谷 新編鎌倉志説
①国清寺跡 ②銭洗弁才天 ③佐助稲荷神社 ④蓮華寺跡 ⑤御所入 ⑥上杉憲基邸跡

Google Map 佐助ヶ谷 鎌倉廃寺事典説
①北斗堂 ②銭洗弁財天 ③佐助稲荷神社 ④国清寺跡 ⑤宝蓮寺跡 ⑥法性寺 ⑦蓮華寺跡

御所入


鎌倉志の地図画像⑤にある「御所入」ですが、惟康親王が将軍職を廃され京都に送還される際に佐助ヶ谷に立ち寄っています。後深草院二条の『とはずがたり』では、二条がアイドルの追っかけかのごとく、佐助ヶ谷にまで行って惟康親王の動向を見守っている様子が記されています。このことからも将軍に関係する建物が佐助ヶ谷にあって、鎌倉志はそれを言っているのだと思われます。

国清寺


鎌倉志の④、廃寺事典の①にある国清寺(こくせいじ)は、義堂周信の『空華集』や『鎌倉大草紙』『上杉禅秀記』のどれにも上杉憲顕が建立したとあります。伊豆韮山にも同名の寺があって、そちらも応安元年(1368)上杉憲顕が亡父の菩提を弔うために中興したとあり、またどちらも無碍妙謙という僧侶を開山に迎えているので、両者には何かしらの関係があったと考えられています。伊豆の国清寺は、畠山国清の創建と云われ、関東十刹に列しています。一方でこちらの国清寺は、応永二十三年(1416)上杉禅秀の乱の際に、禅秀の放火によって焼失したようです。

伊豆の国清寺

蓮華寺


鎌倉志の④、廃寺事典の⑦にある蓮華寺は、光明寺の寺伝によれば、開山に浄土宗第三祖の然阿良忠(ねんなりょうちゅう)、開基が四代執権の北条経時で、仁治元年(1240)に鎌倉入りした良忠のために、北条経時が佐助ヶ谷に建立し、寛元元年(1243)に現在地に移り光明寺に改められたと伝えられています。

光明寺

その他


廃寺事典①にある北斗堂は、どのようなものか詳しくはわかりませんが、『吾妻鏡』弘長三年(1263)の記事に登場しています。法性寺は、廃寺事典に「逗子の法性寺と関係があるのか?」「法蓮寺の間違いではないか?」などとみられるので、あまり分かっていないようです。また宝蓮寺も詳細不明です。


現在の佐助ヶ谷


下地図画像は、現在の谷戸内の状況です。銭洗弁財天と佐助稲荷神社が現存し、それから光明寺畑と呼称される場所があります。そして横穴に墓地と、上画像でも示してある寺院跡にいかにもな痕跡が残されています。

Google Map 佐助ヶ谷
①光明寺畑 ②銭洗弁財天 ③佐助稲荷神社 ④横穴 ⑤墓地 ⑥横穴

地図画像① 光明寺畑


佐助ヶ谷を奥に進み銭洗弁天に向かう坂道を上がる直前のスペース奥に畑が広がっています。『かまくら子ども風土記』(以下風土記)によれば、この辺りを光明寺畑と云うそうです。光明寺が伝える光明寺と蓮華寺との関係からも、ここが蓮華寺跡なのかと考えてしまいますが、私が見たどの著書・資料でも断定はしていません。風土記では、蓮華寺と光明寺に関係があるのかわからないという見解を示しています。まぁとにかくですね、周辺を山に囲まれていて、いかにもお寺がここにあったんじゃないかという雰囲気です。それから畑の奥に横穴がみられます。近づけないのでやぐらかどうかは不明です。

光明寺畑
光明寺畑にある横穴

そしてこの小谷戸から裏山丘陵部に登る道筋が2本確認できます。鎌倉市教育委員会の調査報告書によると「逢坂」と「七曲坂」と呼称されています。逢坂は銭洗弁天に向かう道で、七曲坂は逢坂とは反対側丘陵部にあるジグザグ状の急峻な道です。もちろんこれらが光明寺畑にあったとされる施設の往時からの裏山への登頂口かはわかりませんが、少なくとも逢坂に関しては道沿いにやぐらがみられるので、往時からの道筋であった可能性も考えられるかもしれません。

逢坂 右側丘陵部壁面にやぐらが並んでいる
七曲坂 扇ガ谷から化粧坂を登って頼朝像平場に向かう途中に見える

地図画像④⑤ 横穴と墓地


鎌倉志が上杉憲基邸跡、廃寺事典が法性寺跡とする地点では、数基の横穴と小谷戸奥にひな壇状地形と墓地がみられました。佐助にある横穴は全て私有地内のため近づけません。また、墓地はお寺も何もない場所にひっそりとあります。土着の地元住民らの先祖代々の墓といった感じに思えたので、観光客が興味本位で近づくのは悪いと思い自粛しました。ただ、廃寺事典には市営の無縁墓地とありました。墓地はこの小谷戸の最奥に位置するので、ここにお寺や邸があった場合、いかにも霊廟として活用されそうな場所です。ちなみにこの辺りから嘉暦二年(1327)の銘がある宝塔が出土したと『鎌倉市史 考古編』にありました。

地図画像④の横穴
横穴ズーム
地図画像⑤の墓地とひな壇状地形

オマケ 地図画像⑥ 横穴


地図画像⑥には何の伝承もないようですが、こちらでも数基の横穴が確認できます。鎌倉駅から無量寺ヶ谷を通って銭洗弁天に向かうと、トンネル(佐助隋道)を通ることになりますが、その辺りです。こちらもやぐらなのか何なのか分かりませんが、面白い事に「家型」とも「切妻型」とも云われる珍しい形状をしています。・・でもこれはさすがに違うでしょうか。どうなんでしょう。

地図画像⑥の横穴

自宅の敷地内に横穴が付いてるって・・。しかもこちらのお宅では駐車場として活用しているようです。私の価値感ではレインボーブリッジと東京タワーを見渡せる都心の高層高級マンションに住んでいる友人の家よりうらやましいです。

佐助の由来


佐助の地名の由来には2つあって、かくれ里の稲荷と名乗る老人が源頼朝の夢枕に立ち、平家討伐の挙兵を促したという伝承から佐殿(頼朝)を助けたので佐助と呼ばれるようになったという説。もう一つは、ここに上総介・千葉介・常陸介の三介の邸があったので三介ヶ谷と呼ばれるようになったという説があるそうです。谷戸の奥はかくれ里と呼ばれ、頼朝に関する伝承が残されています。

佐助稲荷神社
銭洗弁天から眺めた景色

佐助ヶ谷には、鎌倉期では北条氏が創建に関わった蓮華寺や将軍家に関連する建物が、そして南北朝期では山内上杉家など、鎌倉公方の執事クラスの邸やお寺がありました。結構なビッグネームらが関わっています。この辺りは化粧坂が近接しているので、よくよく考えたらその時代その時代に権勢を誇った人物がこの地を押さえるのは当然かもしれませんね。

化粧坂



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探索期間 2014年4月
記事作成 2014年5月9日

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