2014年5月15日木曜日

新田義興と鎌倉


生年没年 元弘元年(1331)~正平十三年(1358)
家柄   河内源氏義国流
官位   贈従三位左兵衛佐


新田義興出自


元弘元年(1331)後の新田義興となる徳寿丸は、新田義貞の二男として新田群新田荘で生まれます。延元二年(1337)元服の際、後醍醐天皇から新田左兵衛佐義興という名を賜ったと云われています。動乱の南北朝期を南朝方として活躍した新田家でしたが、兄の義顕は、義興が元服した延元二年(1337)に越前金ヶ崎城落城の際、後醍醐天皇の皇子尊良親王と共に自刃。父の義貞は延元三年(1338年)に越前藤島の戦いで戦死しています。足利尊氏の権勢は揺るぎないものとなり、後醍醐天皇の南朝方は劣勢に陥ります。

太平記絵巻 落ち行く後醍醐天皇

武蔵野合戦


確立されたかにみえた足利政権でしたが、足利直義と高師直の対立によって勢力が二分され、事態は観応の擾乱へと発展します。この数年に渡った争乱は、直義の死によって一応の決着が付いたものの、義興をはじめ弟の義宗、従兄弟の脇屋義治、北条高時のニ男時行、三浦高通などの南朝方がこのとき決起します。正平七年/文和元年(1352)武蔵野の小手差原で足利尊氏と義興の南朝方が激突し、尊氏を退けます。しかし、このとき両者ともに多くの犠牲をともなったため、義興ら南朝方の軍勢も離ればなれとなってしまいます。

鎌倉合戦


その後わずかな手勢となった義興と脇屋義治は、このまま退くよりどうせなら鎌倉公方足利基氏と戦って死のうと、雌雄を決すべく鎌倉に向かいます。途中三浦高通と合流した義興は、鎌倉で大御堂の上から真下へ押寄せ、足利方を散々にしたため、公方基氏は鎌倉から退くことを余儀なくされます。このとき合戦中に手綱の切られた義興は、敵の攻撃を受けながらも騎上のまま冷静に手綱を結びなおしたと太平記にあります。一方で尊氏を討つべく笛吹峠に布陣していた新田義宗が戦いに敗れ敗走したことから、義興ら南朝方は鎌倉での布陣をあきらめ鎌倉を脱出します。足利尊氏・基氏親子を討てなかったものの、南朝方は足利方に大きな損失を与え、ここに新田義興は足利方から「厄介な大物」として認知されたことでしょう。

大御堂ヶ谷裏山小富士山から眺めた景色
画像中央やや下に東西に六浦道が通っている 左に筋替橋 中央奥が大倉幕府跡 右が足利御所方面

義興がいた場所


太平記にあった「大御堂の上から真下へ押寄せ」という記述ですが、大御堂の上は東勝寺跡裏山ともなります。祇園山ハイキングコースのある丘陵部最北となる小富士山からは、鎌倉御所から筋替橋間の六浦道が一望できます。上画像がそれです。この見晴らしの良さからも、義興はきっとここで指揮を執っていたのではないかと想像をかきたてられます。また、財団法人鎌倉風致保存会の調査報告書では、義興が東勝寺切通をこのとき通ったと推測する記述がみられます。東勝寺切通は、葛西ヶ谷(東勝寺ある谷戸)から西ヶ谷(名越大谷)に通じるもので、現在も祇園山ハイキングコースからその古道跡が確認できます。はじめて見た時、そのいかにも古道跡といった雰囲気に感動してしまいました。

東勝寺切通

義興の最期


延文三年(1358)正攻法では義興を捕らえられないと悟った鎌倉公方・足利基氏は、執事の畠山国清と謀り、竹沢京亮や江戸遠江守に新田義興の謀殺を命じます。

竹沢が義興に近づき、畠山国清に領地を奪われたと嘘を付き、救援を求めるかたちで、義興が鎌倉に攻め入るよう手はずを整えます。義興が配下の者と多摩川の渡し場矢口渡に向かったところに、竹沢・江戸らが船頭の頓兵衛に渡し船に穴を開けさせ、義興らが乗船したら穴を塞いでいた呑口を引き抜く段取りとしました。やがて義興以下13名の従者が矢口から乗船した後、船頭の頓兵衛は手はず通りに舟を航行不能としその場を離れたのを合図に、両岸から竹沢・江戸の軍勢が攻め立てます。義興ら一行は進退窮まり自刃、もしくは奮戦しましたが多勢に無勢で討ち取られてしまいます。その後、渡しの付近で夜な夜な光るものがあり、往来の人を悩ますので村人たちが集まって亡霊を崇めて社を建立し新田大明神として祀ったと云われています。

矢口渡合戦の絵図

新田神社


義興ら主従13人が命を落としたと伝わる場所には、義興を祀る新田神社があります。境内には義興の遺体を葬ったとされる円墳が残されており、また宝物殿には義興が実際に使用していた鞍や義興直筆の手紙が収められています。

新田神社
新田義興直筆の手紙

目まぐるしく情勢が移り変わる鎌倉末期から南北朝期にあって、足利氏をライバルとする新田家に生まれた義興には、足利幕府を倒す以外の選択肢はなかったと思われます。27年という短い生涯を動乱の南北朝期に捧げた人生でした。


鎌倉公方と瑞泉寺偏界一覧亭


新田義興を謀殺した首謀者の鎌倉公方・足利基氏もまた、動乱の南北朝期にあって争乱に明け暮れた生涯でした。入間川殿とも呼ばれたように、上述した武蔵野合戦の地でもある小手差原付近で長い間布陣することを余儀なくされます。そんな彼の憩いの場が、夢窓疎石が造営した瑞泉寺の偏界一覧亭で催された観花の会でした。花見や歌会などで、争乱に明け暮れて疲弊した心の休息を得ていたようです。

瑞泉寺偏界一覧亭跡

記事作成 2014年5月15日

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