2014年5月16日金曜日

新田神社

社号   新田神社
創祀   正平十三年(1358)
御祭神  新田義興


菅原道真や平将門は、不業の死によりその後に怨霊として天変地異などをもたらしたため、神として神社に祀られることとなりました。そして同じくこちら新田神社では、鎌倉にも縁のある南北朝期の怨霊が神として祀られています。神の名を新田義興と云います。

新田神社御神木

新田神社縁起


新田義貞のニ男の新田義興が足利方の謀略によってだまし討ちに遭い、現在の東京都大田区武蔵新田辺りにあった矢口渡で命を落とします。その後、渡しの付近で夜な夜な光るものがあり、往来の人を悩ますので、土地の人が義興を埋葬した塚に一社を造立したのが新田神社の起こりと云われています。

新田神社境内

新田神社は戦時中の東京大空襲によって社殿が全焼・全損となり、そのとき規模も小さくなったそうです。そんな中でも生き残ったのがここの御神木で下画像の樹齢700年の欅(けやき)です。長い歴史を感じさせる凄い様相です。

新田神社御神木

拝殿

こちらは「うなる狛犬」戦前のものでもう一体は破損したため境内の隅に置かれています。義興を謀略で仕留めた畠山一族の者、もしくはその血縁者末裔などが近づくと、決まって雨が降り、この狛犬がうなるそうです。

うなる狛犬

お塚と平賀源内


社殿後部にある「お塚」は直径約15mの円墳となっており、義興の遺体が埋葬されていると云われています。実際にもここから刀が発掘されていて、宝物殿に収蔵されています。画像では分かりづらいかもしれませんが、確かに塚状になっています。お塚の中に入ると祟りがあるという事で厳重に立ち入れないようになっています。

お塚

江戸時代にエレキテルの発明などで有名な平賀源内がこの「お塚」に生える竹で破魔矢(矢守)を作り、厄除けに効くお守りとして勧めていたそうです。劇作家としても有名な平賀源内は新田義興を主人公にした浄瑠璃「神霊矢口渡」を上演しています。そうすると、破魔矢は今で言うタイ・アップ効果やキャラクター・グッズ販売といった意味合いがあったのでしょうか。天才すぎますね。源内は作家でありながらも結構優秀なビジネス・マンだった可能性が高かったようです。憧れます。ちなみに源内の作家としての名を福内鬼外(ふくちきがい)と云うそうです。


宝物殿


毎年10月10日に宝物殿に収蔵されたお宝が公開されます。義興直筆の手紙、新田大明神縁起絵巻、鞍、太刀、槍、鎧などなどです。

新田義貞四天王の一人 篠塚伊賀守の兜

なかでも感動したのが新田大明神縁起絵巻のあまりの美しさと、何と言っても義興の鞍でしょうか。いかにも年代物らしい重厚感あふれる見た目です。しかも牡丹が刺繍されているんですよこれ。現代のセンスでもかなりイケてるデザインだと思いました。ちなみに左端に写っているのがお塚から発掘された刀です。それにしてもこの鞍・・ やっぱり本物って凄いです。ホント感動しました。

義興愛用の鞍

義興の最期


鎌倉公方・足利基氏は、執事の畠山国清と謀り、足利方に寝返ってきた竹沢京亮や江戸遠江守に新田義興の謀殺を命じます。竹沢右京亮、江戸遠江守らは義興のもとに潜入し、延文三年(1358)義興が鎌倉に攻め入るよう手はずを整えます。義興が配下の者と矢口渡に向かったところ、竹沢・江戸らは船頭の頓兵衛に渡し船に穴を開けさせ、義興らが乗船したら穴を塞いでいた呑口を引き抜く段取りとしました。やがて義興以下13名の従者が乗船した後、船頭の頓兵衛は手はず通りに舟を航行不能としその場を離れます。これを合図に両岸から竹沢・江戸の軍勢が攻め立てます。沈み行く船の中で義興ら一行は進退窮まり自刃、もしくは奮戦しましたが多勢に無勢で討ち取られてしまいました。

矢口渡合戦

神霊矢口渡関連周辺史跡


神霊矢口渡及び新田神社に関連する史跡が東急多摩川線沿線に点在しています。詳しい所在地を知りたい方は、最下部のGoogle Mapにて印してあるので、そちらを合わせてご覧下さい。下画像の十寄神社は、同じく矢口渡で命を落とした義興の従者らを祀る神社で、新田神社からもう少し奥に行った多摩川寄りに所在しています。

十寄神社

こちら下画像の矢口頓兵衛地蔵尊堂は、謀略に加わった船頭の頓兵衛が自らの行いを悔い、その冥福を祈って建てたものと伝えられています。別名「とろけ地蔵」とも云われています。堂内にある地蔵がとけていて、義興公の祟りとも伝えられています。そういえば鎌倉の薬王寺泥牛庵でも同じく「とろけた」ような形状の石像がありました。鎌倉のものは地層に含まれる塩分が原因とも云われていますが、定かではないようです。

矢口頓兵衛地蔵尊堂

下画像は妙蓮塚三体地蔵尊で、自刃せずに敵陣に切り込んでいった義興の配下で土肥三郎左衛門、南瀬口六郎、市河五郎を祀っていると云われています。宝篋印塔の最上部にある宝珠のような石造物が落ちていました。

妙蓮塚三体地蔵尊

義興の怨霊に悩まされ江戸遠江守が逃げ込んだのが鵜の木にある光明寺と云われています。江戸氏の墳墓があると著書・資料にありました。近づけないのでちょっと分からないのですが、塚があってその頂部に鎌倉でもよく見かける中世のものらしき石塔が置かれていました。

鵜の木光明寺にあった塚頂部 江戸氏の墳墓と石塔か

矢口渡での一件より前に、竹沢京亮は義興の信用を得るために京都から呼び寄せた公家の娘で少将局を義興の妻とさせました。そこに月見の宴を催し毒殺を謀りましたが、これを察知した少将局が義興を宴に行かせなかったため失敗に終わっています。スパイとして送り込まれたはずの少将の局でしたが、義興を助けてしまったため、竹沢に斬り殺されてしまいます。下画像の女塚神社はその少将局を祀っています。一方で、これはこの辺りの長者の娘ではないかという説もあるそうです。

女塚神社

新田義興が鎌倉に向かう際、多摩川の渡し場直前で布陣したのが、東急多摩川線沼部駅にある密蔵院辺りと云われています。

密蔵院

当時の多摩川


中世の多摩川は、下画像に記した鵜の木光明寺・頓兵衛地蔵・新田神社を線で結んだ辺りが川岸となっていたそうです。特にこの辺りには渡船場が多かったようで、少し上った所にある丸子の渡し場付近には、上記した密蔵院の他、北条政子が立ち寄ったという伝承が残されている多摩川浅間神社が所在しています。

Google Map 東京都大田区多摩川



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探索期間 2014年4月
記事作成 2014年5月16日

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江戸時代に浄瑠璃や歌舞伎として上演された神霊矢口渡の主人公