2014年6月14日土曜日

北条寺


北条寺縁起


具体的な開創時期は不明であるものの、寺伝によれば、往時では万徳山観音院と号し、北条時政から深く崇敬されていたとありました。北条義時の嫡子安千代が領内の池で蛇に襲われ亡くなった際、義時はここ北条寺を墓所とし、その供養のため七堂伽藍を建立したと云われています。境内奥丘陵部には義時夫妻の墓と伝わる石塔が安置されています。

境内を囲う水路 堀の名残り?
境内にある天満宮
境内裏にあった怪しい地形

北条義時夫妻の墓


境内の丘陵部斜面に造成された墓地に上って行くと、北条義時夫妻の墓と伝わる石塔が置かれています。石塔の上層部は五輪塔のようですが、なかなか見たこのない組み合わせです。

北条義時夫妻の墓
義時夫妻が眺める景色

最明寺の時頼墓と同じく分骨された経緯でもあるのでしょうか。義時の墓は『吾妻鏡』にも記されているように、頼朝法華堂に隣接した丘陵山腹に法華堂が建てられたていたことが分かっています。発掘調査なども行われ、学術的にもそこが義時法華堂跡だと認められています。

鎌倉にある義時法華堂跡

江間


北条義時は『吾妻鏡』では「北条」と記されるより「江間小四郎義時」と記されている方が圧倒的に多いと、確か細川重男先生の著書にあったと思います。幕府が開かれた後、江間の地を拝領し、時政から独立していたようです。ただ、当時の義時は頼朝の家子(頼朝親衛隊)として忙しく鎌倉で過ごしていたことでしょう。ここ江間においてあまりその義時の痕跡を感じられるものは少ないように感じました。義時が崇敬していたと云う豆塚神社が北条寺からも近い場所にあります。また、付近にある現在公園となっている地は義時邸跡と伝わっていて、石碑が立てられています。

豆塚神社
江間にある義時邸跡

また、関係あるのか分かりませんが、熊野八坂神社、そして東漸寺という北条氏の三鱗紋を掲げた寺社が隣接しています。

熊野八坂神社
東漸寺

北条氏系譜の謎


上記した北条寺縁起に「義時の嫡子安千代」という見逃せない記述があります。長男とは言っていないので、泰時より年長なのか年少なのか分かりませんが、とにかく北条寺によれば義時の子に安千代という男子がいたようです。個人的に初耳でした。但し、確かに泰時の生年寿永2年(1183年)から二男朝時の生年建久4年(1193年)に随分と間が開くことに違和感を感じずにはいられません。また、安千代を嫡子と記すからにはそれなりに名前のある人物が母だったと思われます。泰時の母が不明となっているように、比企氏出身の姫前以前の義時の女性関係がよく分かっていません。文献・資料に記されていない誰かがいたのかもしれません。

狩野川に架かる四日街から江間を渡す橋 富士山が素敵

この安千代なる人物がその後も健在であれば、泰時が家督を継いでいなかった可能性もあったでしょうか。そういえば、時政と後妻の牧の方の子となる政範は病気で若くして亡くなっています。この政範がその後も在命であれば、義時が北条氏を継いでいなかったとも考えられています。やはり多くの人の上に立つ人間というのは、まさに神に選ばれたとしか言いようのない運命を辿っているように思えてきます。



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探索期間 2014年5月
記事作成 2014年6月14日

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