2014年6月15日日曜日

天野遠景と東昌寺

山号寺号 天明山東昌寺
建立   慶長二年(1597)
開山   信誉



天野遠景


天野遠景は『吾妻鏡』にもその名が多く記されているように、山木合戦、石橋山の合戦、富士川の合戦、そして平家追討の西国遠征と、治承四年(1180)の旗上げ時から頼朝に付き従っている古参の功労者です。幕府が開かれた後は、鎮西奉行職に任ぜられ九州・太宰府などに赴いています。頼朝の死後は剃髪して蓮景と名乗り、晩年はここ伊豆韮山に戻り、この地で没しました。天野遠景の出自は諸説あるものの、とにかく、北条時政や狩野茂光らと共に源為朝討伐軍に加わっているので、古くから伊豆に土着していたのかもしれません。

天野遠景の墓

天野遠景所縁の地


天野遠景所縁の地は伊豆長岡の外れにあります。狩野川を渡る大門橋が近くにあって、庚申塔や石像が道沿いに置かれていました。石像のある辺りを稚児ヶ淵と云います。いつの時代かわかりませんが、近くにある曽源寺というお寺にいた美しい稚児がこの淵で亡くなったため、里人達がその死を哀れんだことにその名が由来します。稚児は何かをつぶやきながら淵に吸い込まれるように沈んでいったそうです。故郷の親を恋しく思っていたのかもしれませんが、今となっては誰もその稚児の心情を知る由もありません。

大門橋 庚申塔などの石塔類
稚児ヶ淵にある石像

薬師の段


稚児ヶ淵から少し北上すると、天野遠景の墓があります。東昌寺によれば、ここには天野遠景が建立した真言宗の薬師堂があったそうです。現地案内板が無ければ「ここ行っていいの?」と思えるような民家の間の階段を登って行きます。

薬師の段
階段を登った先にある天野遠景墓所

天野遠景の墓はなんと、掘り込みが浅いものの、まるでやぐらのような造作です。3基の石塔が並んでいて、中央が遠景、左が子の政景、右が弟の光家と云われています。

天野遠景の墓
遠景さんが眺める景色

薬師堂は慶長二年(1597)に東昌寺に移ったとありました。その時代からこの土地が東勝寺のように空地のままだったとは思えませんが、石積みとその奥に広大な平場が広がります。もしかしたら薬師堂跡でしょうか。

石組み
平場

東昌寺


薬師の段から数百メートル、東昌寺があります。縁起から察するに、入口には古そうな庚申塔が並べられていて、奥に進むと薬師堂や本堂があります。鎌倉寺社のように墓地が丘陵斜面に施されています。

東昌寺
新薬師堂

東昌寺縁起


お寺に伝わる薬師如来縁由記によれば、慶長二年(1597)僧の信誉が薬師の段から薬師像を現在地に移し、遠景の娘の萩野氏が念じていた行基作の阿弥陀如来を本尊として建立されたとありました。薬師像は薬師腹篭と云い、平家追討の遠征の際に遠景が流れ矢を受け傷を負ってしまい、そのとき僧侶から贈られたものと云われています。遠景、政景、光家の位牌と共に遠景自身が彫刻した毘沙門天像や馬の像が現存しているそうです。

境内 手前が薬師堂 左が本堂 奥が庫裡
本堂奥にも何か造作の跡がみえる
裏山からの眺め

こちらにはミニやぐらといった感じの浅くて小さい掘り込みがありました。

ミニやぐら

その他、東昌寺付近には縁起のわからない小さな社殿や天野八幡宮などが道沿いに所在しています。天野遠景に関連するものでしょうか。それにしても、こうして伊豆をめぐっていると、頼朝に北条氏、狩野氏、山木判官など、韮山という地域の中に随分と色んな人がひしめいていたのだと実感できます。

不詳不明の社殿
天野八幡神社
前面通りを進むと執権時頼の墓がある最明寺がある



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探索期間 2014年5月
記事作成 2014年6月15日

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