2014年6月18日水曜日

江川家と韮山


江川家は中世から続く名家で、徳川幕府の時代に伊豆韮山を中心に幕府の直轄領を管轄していました。「おぬしも悪よの~」でお馴染みの時代劇定番のセリフの影響のためか、あまり良い響きの言葉ではありませんが、江川家はつまりここ韮山に役所を置く「お代官さま」です。しかも最盛期には10万石もの地を管理していたそうです。

Google map 伊豆韮山
①伊豆長岡駅 ②反射炉 ③本立寺 ④江川邸 ⑤蛭ヶ小島 ⑥原木駅 ⑦願成就院

上地図画像は伊豆の国市観光協会が勧めるウォーキングコースの一部です。ちょうどこの辺りに行ったのが日曜日だったということもあってか、多くの人で賑わっていました。しかも鎌倉のように、シニア世代の方々が集団で訪れています。どうやら地図画像の①から⑥までのコースが定番となっているようで、大よそ6.25kmほどの距離となります。②の反射炉は江川家が建造した産業遺産、③の本立寺は江川家の菩提寺、そして④の江川邸とほぼ江川家に関するものばかりです。

ウォーキングコースのいたる所で富士山が見える

反射炉


反射炉とは、伊豆の国市HPによれば、銑鉄(鉄鉱石から直接製造した鉄で、不純物を多く含む)を溶かして優良な鉄を生産するためのものとありました。大砲などを鋳造していたことで周知されています。嘉永6年(1853)のペリー来航以前から反射炉の研究を続けていた江川家36代目当主の英龍は、悲願の完成を待たず反射炉建造途中で亡くなってしまいます。そして英龍に代わって跡を次いだ37代目の英敏によって、着工から3年半の歳月をかけて安政4年(1857)に反射炉は完成しました。その後、元治元年(1864)まで韮山反射炉は大砲などを鋳造してきました。

反射炉

本立寺


反射炉から旧態で残された丘陵部を通り本立寺に向かいます。庚申塔などの石塔が各地に置かれていました。昔からあった道筋なのかもしれません。後で知りましたが、この辺りは豊臣秀吉の軍勢が韮山城を包囲した際、豊臣方の陣地となっていた模様です。そう言われると確かに、怪しい丘陵部での造作がみられました。


本立寺は江川家の菩提寺です。寺伝によれば、江川家16代当主の江川太郎左衛門英親が日蓮を招き開いたとありました。中世のものらしき古そうな石塔は見当たりませんでしたが、700年の歴史を持つ古刹です。

本立寺
説明を追加

江川邸


本立寺からも近い場所に江川邸が所在します。お代官さま時代からある古建築がそのまま残されています。南北朝期の木材を再利用して建てられたそうです。母屋の他にも蔵などが残されています。


母屋・蔵などの建物だけでなく、室内に残された遺品が数多く展示してあります。興味深いものも多く結構ボリュームあります江川邸。すぐ下画像の昔の炊飯器みたいなものは、パンを焼いていたものです。反射炉の建造に着手した36代目の英龍は、兵糧用のパンの製造を日本で初めて製造した人物としても知られています。ホント天才だったんですね、英龍さん。


江川家代々


江川家の先祖は源満仲の二男宇野頼親と伝わっています。江川家の記録によれば、9代の宇野太郎親信が従者13人と伊豆国八牧郷にて源頼朝に従い戦功をあげ、その跡を継いだ10代の宇野太郎治信も頼朝に仕え戦功あって江川の荘を賜るとありました。21代の英信のときに姓を宇野から江川に改めています。その他、15代の宇野右衛門英治が北条時頼に造酒を献上し、その美を賞されたとも記されていました。

江川邸からも普通に見える見事な富士山

元箱根石仏群に大よそ3mもの宝篋印塔があって、上記した江川家の先祖となる多田(源)満仲の墓と云われています。但し、満仲は厳密には江川家のというより清和源氏全体の祖と表現したほうが正しいでしょうか。宝篋印塔は、永仁四年(1296)に作られ、また、なんと、正安二年(1300)には忍性により供養が行われていたことがわかっています。現地の案内板には、何故これが多田満仲の墓と伝わっているのかわからないといった旨を記し、最後に「皆さんはどう思いますか?」と文章を締め括っていました。忍性は特定の檀那のために動いたりしません。ですから忍性が供養したのであれば、誰か個人のためというより、万人の極楽浄土を願った壮大な石塔だったのではないかと私は思いますが、皆さんはどう思いますか?。

元箱根石仏群の宝篋印塔



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探索期間 2014年5月
記事作成 2014年6月18日

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