2014年6月3日火曜日

円成尼と円成寺跡


伊豆韮山の西側で守山と呼ばれる丘陵部の一画に北条氏邸がありました。丘陵部北側は御所ノ内と呼ばれ、北条氏に関連する史跡が集中しています。下地図画像の⑥で北条氏邸跡とされるこの地における発掘調査の結果、鎌倉期から南北朝期にかけた何重もの遺構・遺物が発見され、なおかつ遺物は北条氏の時代ではない、仏教的要素の強いものであったことから、文献・資料でしかその存在を知られていなかった円成寺が、北条氏邸跡に建立されていたことがわかりました。この地では、鎌倉期では北条氏邸、南北朝期では円成寺として土地活用が行われていたと考えられています。

Google Map 伊豆韮山
①願成就院 ②守山八幡宮 ③光照寺 ④成福寺 ⑤堀越公方邸跡 ⑥北条氏邸跡・円成寺跡 ⑦真珠院跡 ⑧真珠院 ⑨子神社 ⑩満願寺跡 ⑪信光寺

円成尼


安達泰宗の娘で執権貞時の妻、そして執権高時の母となるこの女性は、貞時没後に出家して覚海円成と名乗ります。元弘三年(1333)新田義貞の鎌倉攻めにより鎌倉幕府が滅亡した際、北条氏一門の多くがこのとき亡くなります。円成尼は残された子女などを連れ、北条氏の故郷伊豆韮山にやってきました。連れてきた子女や合戦で夫を亡くした未亡人などを扶持するため、また北条一族の菩提を弔うため、彼女は円成寺を建立します。後醍醐天皇が足利尊氏に円成寺を安堵するよう命じている書状が残されているので、お寺はそれなりの経営が行えていたと思われますが、鎌倉の都会から一転、伊豆での田舎暮らしはさぞかし心細かったことでしょう。前述したように円成尼は安達氏の出自なので、甘縄の無量寺ヶ谷で生まれ育ち、結婚後は得宗家邸があった葛西ヶ谷で暮らしていたと思われます。

北条氏邸跡・円成寺跡

円成寺跡


北条氏邸跡・円成寺跡は空地として残されています。敷地に沿うように溝がありましたが、これが遺構なのかどうかはわかりません。敷地奥に行くと、少しだけ地形が起伏していいて大きめの石がいくつか転がっていました。当時の遺構は地中の中なので、これら目に見える溝や石が遺構・遺物なのか微妙なところですが、願成就院や永福寺では一画に当時のものらしき遺物が露出していたので、もしかしたら・・というドキドキ感を隠せません。

地形の起伏
地形

同じく守山の丘陵部に所在する真珠院には、建武二年(1335)の銘がある宝篋印塔などの石塔が残されていて、円成寺から移されたという伝承が残されています。銘にあった年代から察するに、北条一族の冥福を祈る供養塔の可能性が高く、円成尼が関わっていたと推測されています。また、鎌倉の資料でもよく紹介されている宝珠型の水晶はここで見つかったものです。私は画像でしか見たことはありませんが、あたかも円成尼の涙のように思えてくるキレイな遺物です。

真珠院には建武二年(1335)の銘がある宝篋印塔がある 画像は定仙大和和尚塔


発掘調査の結果


発掘調査の結果、北条氏邸跡・円成寺跡となるこの地における南北朝期の地層からは、区画溝、土塁状の高まり、築地堀のような施設、掘立柱建物跡、堀跡、柵列、石積み、礎石建物などが確認されています。また、南北16m・東西17.5mの楕円形で岩盤を掘り込んだ池が丘陵部側で確認されています。この山裾の岩盤が露出する池といえば、鎌倉でいうところの瑞泉寺を想起させますが、実際にも円成尼は瑞泉寺開山の夢窓疎石に帰依しています。優雅に鎌倉で過ごしていた頃に見たであろう瑞泉寺のイメージを伊豆に再現したと推測されています。

夢窓疎石が作庭したと伝わる瑞泉寺庭園

円成尼と夢窓疎石


円成尼と夢窓疎石が贈答した歌が残されています。原文を読んだところで、昨日今日で鎌倉を勉強した私のような者にはわからないので、竹貫元勝その他著『夢窓疎石』から現代語訳だけを引用します。訳は鳥内景ニ先生です。

円成尼
「あなたは理想の隠れ家を求めて、山から山へと遍歴しておいでですが、その旅をお止めになったらいかがでしょうか。世を背かずとても、世の中の辛さ、人間の生き難さがわかっていさえすれば、どんな場所でも修行ができるのではありませんか。世を背かなかったとしても、人生は夢であり、はかないものですから。」

夢窓疎石
「庵を結ぶ山がないのならば、あなたは山のような場所を見つけてそこに隠れなさい。」

円成尼の、私のような者を救ってくださいと云わんばかりの問いかけに、少しばかり夢窓疎石の返答が冷たいようにも思えますが、そこはやはり素人考えなのでしょうか。理解できる人だけに伝わる国師ならではの慈愛に満ちた返答なのかもしれません。ちなみに瑞泉寺から十八曲を経て山頂に設けられた一覧亭からは、富士山が望めるように国師が設計していますが、円成寺跡から丘陵頂部に行くと、一覧亭から望む景色とはまた違う富士山の景観を望めます。というか伊豆韮山で最も美しい富士山景観ポイントかもしれません。

守山頂部からの景色


その後の円成寺


円成尼は貞和元年(1345)に亡くなります。発掘調査の結果からも、その後遺構・遺物ともに少なくなるので、円成尼死後、お寺は衰退していたものと考えられます。しかし、14世紀末から伊豆国守護の山内上杉氏の庇護を受け再び勢いを盛り返します。山内家は伊豆韮山の東側にある奈古谷という地域に国清寺を建てそこを伊豆の拠点としていました。円成寺は国清寺の末寺となり山内家の娘が三代に渡って住持していたことがわかっています。将軍足利義政に御器や海苔を送っていたという残された資料からも、足利将軍家との良好な関係が推測されます。

国清寺

15世紀後半以降、山内家の勢力が衰えたと同時に、国清寺や円成寺もしだいに衰退したようで、15世紀後半から遺構・遺物ともに確認できなくなりました。この頃に円成寺が廃絶したのかもしれません。

円成寺裏山から眺めた景色 富士山が手前の山で少し隠れてしまう



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探索期間 2014年5月
記事作成 2014年6月3日

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