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伝源実朝墓 |
「出テイナバ主ナキ宿ト成ヌトモ 軒端ノ梅ヨ春ヲワスルナ」
(梅の木よ、私がいなくなっても春になったら咲くことを忘れてはいけませんよ)
この歌は承久元年(1219)正月27日、源実朝が鶴岡八幡宮で甥の公暁に暗殺される当日に御所を出る前に本人が詠んだとされるものです。これは菅原道真の「東風吹かばにほひおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな」という歌を真似たものですが、それにしても実朝は何故このような歌を残したのでしょう。あたかも自分が殺されることを予期していたともとらえられます。はたして将軍実朝には予知能力があったのでしょうか。
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実朝が公暁に殺害された現場 |
源実朝に予知能力はあったか?
吾妻鏡には実朝が未来を予測していたともとれる記述がいくつかみられます。以下「」内は現代語訳吾妻鏡からの引用です。
①建保元年(1213)4月7日
御所で酒宴があったきのこと。山内左衛門尉政宣と筑後四郎兵衛尉が塀中門の砌を往き来していたのを見た実朝は「二人とも落命は間近であろう。一人は敵となろう。もう一人は御所方につく者となる。」と本人達に話しています。
同年、実際にも和田合戦が勃発し、筑後四郎兵衛尉は北条方として戦死。一方で山内左衛門尉政宣は和田方として参戦したため捕虜になったと吾妻鏡に記されています。山内政宣はたぶんその後に誅殺されたものと思われます。
②健保四年(1216)6月15日
「あなたは前世の昔、宋朝の医王山長老で、その時には私は門弟となっていました。」東大寺大仏を再興した宋人の陳和卿にこう言われた実朝は、実は6年前に夢に現れた高僧から同じ事を言われていました。
実朝はその後、自分の前世が医王山長老であったことを確信し、宋に渡るための準備をはじめます。
③建保四年(1216)9月20日
実朝のスピード昇進に、大江広元が諌言すると、実朝は「源氏の正統は自分の代で途絶える。子孫が継承することは決してないだろう。」と返したと記されています。
④承久元年(1219)正月27日
上記したように「出テイナバ主ナキ宿ト成ヌトモ 軒端ノ梅ヨ春ヲワスルナ」と歌を詠んだ後、実朝は公暁に殺害されてしまいます。
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実朝の墓と伝わる寿福寺のやぐら内部 他ではなかなか見ない壁面が印象的 |
実朝は霊感体質だった?
『吾妻鏡』健保元年(1213)8月18日条に、不可思議な出来事が記されています。
「丑の刻になって、夢のようなことに、若い女が一人、前庭を走って通った。(実朝が)何度も尋ねられたもののついに名乗らず、とうとう門外に来た時、急に光る物があった。あたかも松明の光のようであった。」
実朝の問いかけにも応えず光って消えるって・・つまり幽霊ってことでしょうか。事情を聞いて駆けつけた陰陽少允安倍親職がこのとき招魂祭を行ったとあります。招魂祭とは、現代語訳吾妻鏡の注釈によれば、死者の霊魂を招きよせて弔う儀式で魔除けに行ったとあります。ですからやはり実朝は説明のつかない、もしくはこの世のものではない何かを目撃してしまったのかもしれません。このことからも実朝は見える人、つまり霊感体質だった可能性が考えられます。
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実朝が足しげく通った寿福寺 |
生死をさまよう経験
生死をさまよった経験を持つ人がその後にスピリチャルな方面に向かうのは現代でもよく聞く話です。実朝は17歳の時に疱瘡を患っています。当時は死に直結する病として恐れられていました。この時に実朝はもしかしたら何か説明のつかない体験をしたのかもしれません。
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実朝が埋葬された大御堂ヶ谷にあった石塔 |
そもそも予測できたことか?
上記したものはそもそも予知能力という程の大げさなものではなく、現実的に予測できたかもしれない可能性も考えられます。兄の頼家が政争に敗れたかたちで修善寺に幽閉されその後殺害されています。自分もいずれ兄のように北条氏から葬り去られるのかもしれないと考えてもおかしくありません。また、源氏は自分の代で途絶えるというのも、もしかしたら疱瘡を患ったことで種無しになった、あるいは性不全になった可能性も考えられます。ただし、和田合戦で山内左衛門尉政宣と筑後四郎兵衛尉が敵味方に分かれて命を落とすことを予測するのは難しそうに感じます。
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実朝が承元三年(1209)に訪れた岩殿寺 |
吾妻鏡編纂者の作為か?
実朝が暗殺された当日、御剣役であった北条義時は、急に心神が乱れ、実朝の御剣役を仲章朝臣に譲って八幡宮を退出したとあります。前年の建保六年(1218)7月9日に義時は、夢で薬師十二神将の内の戌神から枕元でこう言われたとあります。
「今年の神拝では何事もなかったが、来年の拝賀の日は供奉されぬように」
また、大江広元は実朝暗殺の当日、こう実朝に話しています。
「覚阿は成人した後、これまで目に涙を浮かべたことはありませんでしたが、今お側におりますと、落涙を禁じ得ません。これはただ事ではありません。きっと何かわけがあるはずです。東大寺の供養の日に右大将家(頼朝)が出かけられた時の先例に従い、御束帯の下に腹巻(胴鎧)を着けて下さい」
なんと実朝だけでなく大江広元や北条義時までもが、このような予知能力を持っていたかのような記述です。こんなことって有り得るんでしょうか。実朝本人に加え、北条義時や大江広元までもが、承久元年(1219)正月27日の出来事を予見していたかのようなこれらの記述。ここまでくると、これは吾妻鏡を編纂した人物が何かを隠すための作為かと疑いたくなります。
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実朝が承元三年(1209)に訪れた神嶽(神武寺) |
実朝暗殺の黒幕は?
実朝を暗殺した公暁は単独犯ではなく黒幕がいたとささやかれていますが、その候補には、北条氏、三浦氏、もしくは北条氏・三浦氏の共謀説などいくつか挙げられます。北条氏が実朝を暗殺する動機がないと主張する説もありますが、上記した義時の夢のお告げが逆に御剣役を辞退した言い訳っぽくて怪しく感じられます。また、大江広元の涙を流すシーンもかなり怪しいもんです。大江広元は暗殺に関わらなくとも、少なくともこの後に実朝が殺されることを知っていたのではないでしょうか。つまり大江広元だけでなく、幕政の中枢にいた大物御家人ら全てが実朝暗殺に関わっていた、もしくは暗殺することを容認・黙認していたとも考えられます。
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実朝が幼い頃を過ごしそして埋葬された大御堂ヶ谷勝長寿院跡 |
吾妻鏡の謎と共に
ということで実朝に予知能力があったのかどうか、以下の3パターンの選択肢が考えられます。
①予知能力があった
②予知ではなく予測できた範囲であった
③そもそも吾妻鏡の作為であった
「北条氏に歪曲された史実」とも評される吾妻鏡ですが、 記述のどこまでを疑うべきか、だからといってあまり疑いすぎてもきりがないし、実朝に予知能力があったのかどうかと判断するには、吾妻鏡の記述をどうとらえるかによって答えは人ぞれぞれ変わってくると思われます。つまり、ベタな言い方になりますが、信じるか信じないはあなた次第といったところでしょうか。
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父の頼朝同様に実朝が二所詣のため訪れた三嶋大社 |
そもそも人間には予知能力が備わっている?
近年、ニューヨーク州コーネル大学のダリル・ベム氏が「未来予知は現代の我々を形作る」という論文を発表しました。ダリル氏は自らの実験の結果、人間には予知能力があると主張しています。鎌倉時代の人達は、戦争だけでなく病気や貧困など、明日をも知れぬ命です。先進国の現代人にはない何か鋭い感性を持ち合わせていたと考えても不思議ではありません。私達のDNAには予知能力が備わっているのに、文明の発展などによってその使い方を忘れてしまったという考え方はありかもしれません。皆さんもありませんか?初めて会った人や初めて経験することが初めてではないように思えることが。
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実朝が建立した大慈寺裏山にある層塔 一説には大江広元の墓と伝わる |
生き長らえる最後のチャンスだった?
自分の前世が住んでいた宋の医王山へ行くため、実朝は唐船を造らせていました。そして建保五年(1217)4月17日、ようやく船が完成するも鎌倉の海は浅瀬であったため、船は浮かぶことも出来ず、実朝は宋への渡海を断念せざるを得ませんでした。将軍がいきなり宋に行きたいと言って本当に行こうとするこの前代未聞の珍事に、一般的には「実朝が迷走した」として評価されますが、彼に予知能力があったと考えると、もしかしたらこれは、いずれ殺害される運命から逃れるための行動だったのかもしれません。もし、船が浮かんでいれば、少なくとも彼は若くして死ぬことはなかったかもしれません。
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鎌倉にあった港 和賀江嶋跡 |
カテゴリー 鎌倉研究部
記事作成 2014年7月5日