2014年8月11日月曜日

月輪寺跡


十二所


下地図画像の○部分には、御坊(牛蒡)ヶ谷・番場ヶ谷などの谷戸名が残されています。それから馬場(馬場ヶ谷)・霧ヶ沢・亭ヶ沢などの小字名が鎌倉市教育委員会の調査報告書にみられます。極楽寺地区にも馬場ヶ谷がありましたが、笠懸が行われていたことがわかっているので、こちらでもそうした土地の活用があったのかもしれません。もしくは朝比奈切通入口にある庚申塔群に馬頭観音塔があるので、この辺り一帯が馬に関する地域だったとも考えられます。そして、この谷戸には月輪寺(がちりんじ)というお寺があったと伝えられています。

Google map 十二所の主な史跡
①明石ヶ谷 ②光触寺 ③宇佐小路 ④やまなみルート ⑤七曲・果樹園 ⑥熊野神社 ⑦朝比奈切通 ⑧十二所神社 ⑨御坊ヶ谷 ⑩お塔の窪やぐら ⑪北条首やぐら ⑫大江広元墓 ⑬明王院 ⑭能満寺跡 ⑮大江稲荷社

月輪寺


『十二所地誌新稿』(以下地誌)にはよれば、月輪寺の旧跡は御坊ヶ谷を入った少し左側の好見という処にあった。それゆえに好見の月輪寺と云った。そこに房の屋敷と云う処があり、月輪寺跡と云ったとあります。『新編鎌倉志』(以下鎌倉志)にある「光触寺ノ北、霧沢ノ内ニ、好見(ヨシミ)ト云ニアリ、故ニ好見ノ月輪寺ト云」を引用しているようです。また『鎌倉年中行事』に勝長寿院・心性院・遍照院・一心院・月輪院の五ヵ寺の住職は公方様の護持僧とあるから相当の大寺であったのだろうと推測しています。ちなみにここでは月輪院と記されていますが、『鎌倉廃寺事典』(以下廃寺事典)に「院と寺の関係は断定し難いが、無量寿院の場合同様、一応同じと考えておいて差し支えないと思う」とあったので、月輪寺イコール月輪院と考えて間違いないようです。

Google map 御坊ヶ谷
①十二所神社 ②御坊橋 ③霧ヶ沢 ④やぐら ⑤やぐら ⑥分岐点 ⑦お塔の窪やぐら ⑧北条首やぐら

『鶴岡八幡宮寺社務職次第』に元亨二年(1322)~元徳三年(1331)までに(鶴岡の)社務職にあった十六代顕辨が月輪寺と号したとあり、また、文和四年(1355)~応永十七年(1410)に社務職にあった二十代弘賢が月輪寺の別当となっていることから鶴岡八幡宮との深いかかわりがあった寺であることがうかがえます。


御坊ヶ谷


御坊ヶ谷にあった寺院がどのような伽藍構成だったのか、今となってはわかりませんが、上地図画像①の十二所神社から続く丘陵部奥では、明王院や光触寺などと似た大々的な切岸と横穴がみられます。横穴は防空壕だと土地の方がおっしゃっていましたが、宝戒寺裏の紅葉やぐらなど、やぐらを防空壕に改変するケースが鎌倉で多々みられのも確かです。もしもこの平地部分全体が寺院跡だとしたら、鎌倉五山、もしくは少なくとも関東十刹レベルの大寺院です。しかし上記したように、月輪寺はもう少し谷戸を奥に行った所にあったと云われています。

御坊ヶ谷入口部分 十二所神社のある辺り
十二所神社奥の丘陵部寄り 大々的な切岸がみられる
御坊橋 ここからやや登り道

霧ヶ沢


さて、鎌倉志にある月輪寺があったと云う霧ヶ沢(上地図画像③)に向かいます。御坊橋から先にも住宅が建ち並んでおり、丘陵部は崩落防止のための工事で失われている箇所もあります。地図画像を見てのとおり、谷戸は細長い形状をしていて道を挟んだ両脇に一軒ずつ家が建てられる程度です。この辺りに月輪寺があったとすると、ちょっと予想より小さめな寺院となってしまいます。もしかしたら月輪寺ではなく月輪寺の支院・塔頭などの可能性も考えられるのかもしれません。もしくはそもそも月輪寺とはそれほど大きな寺院ではなかったのかもしれません。また、遍照院・泉堂・月瀬寺などがこの谷戸一帯にあったと記されています。ただでさえあやふやな伝承がさらに同じ地域に重なり合っています。ちょっと月輪寺の詳細な位置をつかむのは、今となってはほぼ不可能なのかもしれません。

御坊ヶ谷奥の住宅街
霧ヶ沢のやぐら 正確にはやぐら跡
上地図画像⑤の辺りにあるやぐら
上地図画像④の辺りあるやぐら 御坊ヶ谷から天園ハイキングコースに向かう間道沿いにある

月輪寺間道


住宅街を抜けると旧態地形となります。吉沢川が沿うように流れていてとても美しい自然の姿をしています。このまま奥へ行くと天園ハイキングコースにアクセスすることができます。往時の月輪寺裏山部分にあたるのかもしれません。


お塔の窪


しばらく進んだ一本橋を渡った辺りにお塔の窪やぐらという有名なやぐらが所在しています。『鎌倉市史 考古編』に「十二所番場谷の一支谷お塔の窪にある。三穴からなる。」とあります。「お塔の窪」って何だろう?って思っていましたが、この記述からもどうやら地名のようです。「やぐら内の宝篋印塔は16基、1基が外に転がっていて、1基は当時の瑞泉寺住職が寺に持って帰った。」とあったので全部で18基あったようです。下画像を見てのとおりちょっと数が足りないような気がしますが、風化してよくわからないものも含めるのかもしれません。地誌によれば、五輪塔には宝治二年(1248)北条時頼の銘があり、相輪は失われもろく著しく風化しているとあります。中央の石塔のことです。また、どの石塔のことを言っているのかわかりませんが、相輪の下の穴に籾を入れる籾塔と呼ばれるもので、墓と言うより五穀豊穣を祈ったものだと記されています。

お塔の窪やぐら

首やぐら


お塔の窪やぐらから天園ハイキングコースに出て瑞泉寺裏山に向かいます。鎌倉志に「此谷に首塚と云巌窟あり。里人は首やぐらと云。」「相模入道平高時滅亡の時、一門の首を爰に埋となり。」とあります。この辺りに「北条家御一門御廟所道」と刻まれた石碑とやぐら群があります。現在は瑞泉寺の所有となっていますが、往時では月輪寺に関連するやぐらだったと鎌倉市教育委員会の調査報告書にありました。

ごっつい坂道を登ると天園ハイキングコースに出る
北条首やぐら 高時が葬られているかもしれないやぐら
浮彫が施されたやぐら

もうひとつの間道


首やぐらから少し進むと、瑞泉寺へと下りて行く道と明王院に向かう道の分岐点があります。その手前に標識の出ていない道がありますが、これはまた霧ヶ沢辺りに戻る道となります。上地図画像でいうところの⑧~⑤になります。昔からあった道筋なのかわかりませんが、これまでの行程ルートを地図で確かめると、あたかも月輪寺裏山の境界線を表しているかのようにも思えます。つまり上地図画像の①~⑧の点と点を線で結んだ一帯が月輪寺の領域となるのかもしれません。


紅葉シーズン


霧ヶ沢からお塔の窪に至る一帯では、紅葉の季節にまた違った一面を見せてくれる素晴らしい景観となります。知る人ぞ知る紅葉の名所なんだそうです。


廃寺事典に、『若狭国志』北条経時の伝に「法名安楽 号月輪寺」とみえるという謎の記述があります。また、上記した「月輪寺と号した」鶴岡社務職十六代の顕辨は、北条顕時の子で貞顕の弟となります。そして首やぐらの伝承からも、東勝寺で自刃した北条高時の首を残兵がこの谷の何処かに埋めたのかもしれません。地誌では霧ヶ沢にあるやぐらを北条氏の墓だと推測しています。公方成氏に関連していたことしかわかっていない月輪寺ですが、北条氏が関わっていたのではないかという雰囲気が微かに伝わってきます。



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探索期間 2012年4月~2014年7月
記事作成 2014年8月11日

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