2014年8月18日月曜日

無量寺跡 無量寺ヶ谷


往時では無量寺(無量寿院)があったとされる無量寺ヶ谷では、平成14年に最初の発掘調査が行われ、かわらけの出土、やぐら、そして13世紀末からの土丹地業面などが検出されています。

Google map 鎌倉

甘縄って??


無量寺(無量寿院)は安達氏の菩提寺で甘縄にあったと『吾妻鏡』に記されています。そして無量寺があったと伝承が残る無量寺ヶ谷ですが、甘縄と聞くと、甘縄神社の辺りをまず思い浮かべる方が多いと思います。そしてここ無量寺ヶ谷も甘縄なの?と首を傾げてしまいますね。

甘縄神社

鎌倉市教育委員会の調査報告書では「扇ヶ谷に位置する無量寺谷は甘縄の範疇に入らない。本地を甘縄の一部とするには飛躍が過ぎると考えるのが道理であろう。」とありましたが、比較的近年に刊行されている鎌倉関連の著書の多くが、無量寺ヶ谷の辺りを甘縄だとほぼ言い切っています。専門家によって見解が異なるのかもしれませんが、調査報告書はちょっと古いものなのでここ10年ぐらいで鎌倉の定説が覆っているのかもしれません。但し、そもそも甘縄の語源は「海女縄」からきているとも云われています。甘縄神社のある比較的海の近い場所でないとちょっとつじつまがあいません。また、無量寺ヶ谷が甘縄だとすると甘縄神社のある辺りから全部甘縄なのかと、細かい疑問が多々生じてしまいます。疑問は何も解決していませんが、とりあえず鎌倉遺構探索では、佐助ヶ谷の隣にあるここ無量寺ヶ谷の辺りを甘縄と解釈します。


無量寺ヶ谷


現在の無量寺ヶ谷はただの住宅街で何も史跡が残されていないため、何処にあるのかいまいちピンとこない方もいるかもしれません。わかりやすくいうと鎌倉駅裏口から銭洗弁天を目指す際、真っ直ぐ進まずに紀ノ国屋を右折して寿福寺方面に少し近づいた辺りで左折しトンネルを通って向かうルートの途中にある辺りの住宅街です。

Google map 無量寺ヶ谷
①無量寺跡 ②銭洗弁天 ③佐助稲荷 ④松谷寺跡
トンネルをくぐる手前が無量寺ヶ谷

無量寺ヶ谷に実際に行ってみて面白かったのは、上画像のトンネルの他にも2本、合計3本ものトンネルがあったことです。どんな事情があってこんな狭いエリアに3本ものトンネルを通したのでしょう。

無量寺ヶ谷のトンネル


無量寺跡


谷戸は完全に住宅街となっているため何も痕跡を確認することはできませんが、無量寺跡では岩盤を掘り込んだ池が発見されています。つまり瑞泉寺に代表される臨池伽藍の寺であったことがわかっています。また、属性不明ながらも横穴が丘陵部崩落防止のフェンスの裏に隠されていました。但し下画像のとおり、この状態ではちょっとやぐらなのかどうかを判断するには難しい状況です。

瑞泉寺庭園
無量寺ヶ谷
崩落防止のためのフェンスに隠された横穴
横穴内部

無量寺縁起


鎌倉市教育委員会の調査報告書によると、甘縄無量寿院の文献上の初見は『血派類集記第十一』の寛元元年(1243)で、宏教が北条頼経の推挙によって律師に任ぜられ甘縄の無量寿院に住すとみられ、また、このことから将軍頼経が開基、宏教が開山と推測できるとありました。ちなみに将軍頼経を北条頼経と記しても間違いではないみたいです。ややこしいですね。その他、秋田城介義景十三年忌仏事を無量寿院(無量寺)で行ったことがわかっています。そして弘安八年(1285)の霜月騒動に際し焼失し、この辺りにあったとされる将軍御所も焼失したとあります。

無量寺ヶ谷

松ヶ谷


佐介ヶ谷の隣の小谷戸に松谷寺跡及佐助文庫跡の碑が立てられています。ここがどうやら安達氏邸跡となるようです。但し、安達氏ほどの御家人の邸地がここだけだったとは限りません。ここが本邸だったのか別荘だったのかは定かではありません。また、石碑からも松谷寺と佐助文庫があったとされています。谷戸は入口からいきなり登り坂となっていて途中に属性不明の横穴があったりしました。谷戸の形状からはあまり広い平地を確保できなかったのではないかと思われます。

松谷寺跡及佐介文庫跡の碑
松ヶ谷
属性不明の横穴

安達氏


安達氏といえば、伊豆時代から頼朝に仕えていた安達氏の祖となる盛長の他、竹崎李長の『蒙古襲来絵詞』に描かれた安達泰盛が有名です。泰盛は弘安五年(1282)に秋田城介に加え、北条氏が独占してきた官職の陸奥守を兼任します。この頃の安達氏の勢力がいかに強大であったかうかがい知れます。吉田兼好は『徒然草』に泰盛を「並ぶもののいない馬乗り」つまり武勇に長けた武士だったと記しています。

三嶋大社 頼朝参詣中にここで安達盛長が警護していたと云われる場所
竹崎李長『蒙古襲来絵詞』 wikipediaより  
左が安達泰盛 右が竹崎李長 ここが松谷邸だろうか?

霜月騒動


弘安八年(1285)11月、有名な霜月騒動が勃発します。『保暦間記』によれば、安達宗盛が源氏を名乗ったことにより、宗景が将軍になろうとしていると平頼綱が北条貞時に讒言したことが原因と云われています。平頼綱の軍勢に松ヶ谷にいた安達一族及び関係者500名以上が殺され、泰盛の弟の重景は常陸で、泰盛の甥の宗顕は遠江で自害、また、泰盛派とみられる藤原相範・三浦時連・二階堂行景・伴野長泰・武藤景泰・大曾根宗長・吉良満氏・南部孫次郎らが討たれ、さらに金沢家の北条顕時でさえ配流されてしまうという大規模な政争へと発展しました。ですから鎌倉時代末期で再び権力を握る安達氏は、この虐殺から逃れた庶流となるようです。

松ヶ谷

伊豆に訪れた際、円成寺跡という史跡を見てきました。 北条貞時の妻で高時の母となる円成尼が、鎌倉幕府滅亡後に生き残った子女などを連れて落ち延びた場所です。この円成尼なる女性は安達氏の出身です。もしかしたら松ヶ谷で生まれ育ち無量寺にも訪れていたのかもしれません。伊豆の円成寺も無量寺や瑞泉寺と同じく臨池伽藍の寺だったことが発掘調査でわかっています。

円成寺跡

そういえば、この円成寺跡からも近い場所に成福寺というお寺がありました。鎌倉の成福寺と同じくこちらも歴代住職が北条氏出身だと云われています。境内には北条一族の墓がありましたが、何故か「無量寿」と刻まれていました。無量寺(無量寿院)と何か関係があるのでしょうか。

伊豆の成福寺にある北条氏歴代墓 「無量寿」と刻まれている

追記 無量寺跡に行ってきました


その後、無量寺跡を見る機会に恵まれました。こちら『無量寺跡潜入』の記事で詳しく記しているのでよければ見てみてください。

無量寺跡



より大きな地図で 源氏山 を表示

探索期間 2014年7月
記事作成 2014年8月18日

無量寺跡 無量寺ヶ谷 関連記事


無量寺跡潜入

鎌倉に残された最後の秘境がいまその姿を現す!

甘縄神明神社

甘縄の古い歴史を伝える貴重な史跡は長谷の鎮守

佐助ヶ谷

寺院跡と思われるいくつかの痕跡を探りながら佐助ヶ谷の往時の姿を検証

円成尼と円成寺跡

鎌倉幕府滅亡後に伊豆に都落ちした執権高時の母が北条氏の故郷に建てたお寺

成福寺(伊豆)

北条氏の持仏堂跡とも頼朝亭跡とも伝わる伊豆の成福寺

成福寺(鎌倉)

北条氏が代々和尚を務めた鎌倉唯一の浄土真宗のお寺

瑞泉寺

カリスマ夢窓疎石が造営した鎌倉禅宗寺院の極み

瑞泉寺旧境内 ~偏界一覧亭

瑞泉寺境内絵図から往時の瑞泉寺の姿に迫る

三嶋大社

頼朝が深く崇敬し源氏再興を祈願した神社

源氏山周辺エリア 関連記事


銭洗弁財天 宇賀福神社

鎌倉屈指の人気スポットで北条時頼が参詣を促したと云われる銭洗信仰の場

佐助稲荷神社

頼朝に平家討伐の挙兵を促したという隠里のお稲荷さん

佐助ヶ谷

寺院跡と思われるいくつかの痕跡を探りながら佐助ヶ谷の往時の姿を検証

葛原岡神社

源氏山ハイキングコース上にある日野俊基を祀る神社

瓜ヶ谷やぐら群

地蔵坐像や五輪塔の浮彫などが施された瓜ヶ谷のやぐら群

海蔵寺

十六ノ井など貴重な遺跡が残る扇ヶ谷上杉氏の禅宗寺院

海蔵寺旧境内と源翁禅師

海蔵寺周辺に残された遺跡と謎多き源翁禅師

新清涼寺跡

叡尊が鎌倉での滞在中に住したと云われる律宗寺院跡

寿福寺

鎌倉五山第三位の古刹

寿福寺旧境内

寿福寺塔頭跡などの往時の姿を検証

浄智寺

多くの名僧・高僧が住持した鎌倉後期の禅宗寺院