2014年8月6日水曜日

十二所と大江広元


明石ヶ谷


十二所の明石ヶ谷に大江広元が邸を構えていたと云われています。関西にある明石という地名が大江広元と関係あるのかわかりませんが、そういわれると確かに、京からやって来た広元がここを明石と名付けたとも考えられます。また、羽黒神社が明石ヶ谷付近にあったと『十二所地誌新稿』(以下地誌)にありましたが、これも出羽守であった広元が山形から勧請したものなのかもしれません。そして十二所エリアの広域に広元に関連した史跡が点在しています。

Google map 十二所
①明石ヶ谷 ②光触寺 ③果樹園 ④朝比奈切通 ⑤十二所神社 ⑥大江稲荷社 ⑦明王院 ⑧層塔 ⑨浄妙寺

大江広元邸


大江広元の邸が何処にあったのか、興味深いところですが、地誌によれば、明石ヶ谷一帯の地であって、西は頂輪房に接し、北は船玉山をだきこみ、東南は一心院旧跡に及び、東方は羽黒山の裾に接して宇佐小路に至り、北は滑川によって区切られる。江戸末期頃、広元の遠孫と称する毛利がこの地を買収しようとしたが、価格の点で折り合わないためにそのままになったと云うとありました。固有名称の位置がさっぱりわからないので理解に苦しみますが、幕末に毛利が土地を買収しようとしていたという逸話が面白いですね。で、結局のところ広元邸はというと、ちょっと広すぎるような気もしますが、明石ヶ谷一帯であったということになります。

明石ヶ谷 六浦道滑川沿い
明石ヶ谷 明石山

明石ヶ谷寺院跡


明石ヶ谷には一心院と生楽寺(昌楽寺)というお寺があったと云われています。一心院は『鎌倉廃寺事典』によれば、「光触寺の南方にあり柏原山の下にあり字の名をとって明石の一心院といい伝える。寺の跡とも、また堂庭とも呼ぶ所があって、そこにある厳窟の中に木像があるという。」と鎌倉志にあった説を引用しています。また『成氏年中行事』正月十三日条に、鎌倉御所成氏の項には一心院の住持は成氏の護持僧となっていたとあるので、南北朝期では公方様に関係するそれなりに格式あるお寺だったことがうかがえます。『五大堂事蹟備考』には、一心院、月輪院ともに「五大堂寺務僧正蹟ノ坊舎ナリ」とあるそうです。残されている資料からは大江広元との関連性は見当たりません。一方で、生楽寺につていはほとんど資料がありません。

六浦道から見た明石ヶ谷 左奥の丘陵が柏原山

鎌倉市教育委員会の調査報告書によれば、明石ヶ谷の丘陵部寄りでやぐら群が多数確認されています。一心院跡と考えられている小谷戸に行ってみましたが、もう既に丘陵部崩落防止のための工事で跡形もなくコンクリート化されていました。

一心院に関連するやぐらがあった辺り

一方で光触寺にも近い小谷戸も住宅街となっています。こちらではやぐら・切岸・石塔が残されています。調査報告書を見る限りどうやらこの辺りが生楽寺跡と考えられているようですが、地誌には光触寺のある谷戸にあった(生楽寺が)と記されているので、解釈が違うのか、私が間違った理解をしているのかもしれません。ちょっとこの辺りあやふやです。

横穴
谷戸奥にある切岸 石切り跡か?

伝大江広元墓


大江広元の墓と伝わる層塔が明王院裏山にあります。(上地図画像⑧)明王院から瑞泉寺に向かうハイキングコース尾根道沿いです。頼朝の墓も層塔でしたが、鎌倉草創期は層塔がトレンドだったのでしょうか。

大江広元墓
そこら辺に転がっている石材

明王院の地誌に 「大江広元公の墓所は五大堂より戌刻に当たり、山頂の墓まで二丁余有ると、これを持て真と致す由」と広元の墓のことが記されています。また、明治初年地制改革の時、山林・田畑の実測に役人が来ると云うので、村民は広元公の墓が見つかるとうるさいからと若衆が集まってひっくり返しに行ったという話が地誌にありました。もちろんその後に谷に落とされた層塔の欠片は全て拾い上げ復元されたそうです。これも面白い話ですね。

層塔のある尾根
層塔のある尾根より下は断崖絶壁で石切り跡がみられる

層塔のある辺りは意外に太い尾根道で平場と表現してもいいくらいです。井戸跡のような痕跡まであります。また、崖が急峻なので辺りでは石切り場となっていた模様です。昔はお堂が山腹にあって胡桃ヶ谷から見えたそうです。この山を胡桃山と云うそうです。

層塔のある尾根から見た胡桃ヶ谷

大江稲荷社


上地図画像⑥、六浦道から住宅街の路地を奥に入っていった所にあるのが大江稲荷社です。「大江家の屋敷神」だったと地誌にありました。以前はもう少し山の上にあったそうです。この辺りを稲荷小路と云います。この稲荷社がその名の由来であることは間違いないでしょう。ちなみに地元のご老公が広元神社と呼んでいました。

大江稲荷 
ちょっと赤すぎない?ってくらい赤い

大江広元公と十二所


十二所地誌では、大江広元だけに「公」を付けて記しています。稲荷社を広元神社と土地の人が呼んで親しんでいるように、十二所では大江広元の扱いは格別のようです。「オラが村の有名人」的な扱いですかね。そして『吾妻鏡』に彼の人間性を表す記述がみられます。建保七年(1219)正月27日条に「覚阿(大江広元)は成人した後、これまで目に涙を浮かべたことはありませんでした。」とあります。こう自ら述べているように、この時代の人にしては珍しく感情を表に出さない、言いかえるとどこかクールな印象が伝わってきます。

明石ヶ谷 大江広元邸跡の石碑

大江広元の天才すぎる一場面


幕府対朝廷の戦いとなった承久の乱(1221)において、当初幕府は箱根の辺りで朝廷軍を待ち受ける作戦としましたが、大江広元がこれを一蹴、今すぐ京都に攻め上がるべきと進言しています。これは戦闘が長期戦となってしまった場合の、味方の寝返りや兵士の士気の低下が生じてしまうリスクを避けるための戦略だったと考えられます。誰もがどう戦おうか、どうやって敵を倒そうかと考えていたところに、彼は味方の戦力をいかにフルで発揮できるか、どこにピークを持っていくかなど、広元だけがひとつ高いところから物事を見ていることが吾妻鏡からも汲み取れます。承久の乱は、実際に遠征した北条泰時や御家人らの労力があってからこその勝利だったとは思いますが、この広元の作戦で既に勝敗は決まっていたとも言えるのではないでしょうか。私はこの場面にちょっと感動しました。何て頭の良い人なんだろうって。

鶯ヶ谷にあった大江広元のやぐら

鶴岡八幡宮馬場小路にある駐車場の奥にやぐらが数基残されています。ここには大江広元を父とする毛利季光の墓があったことが『鎌倉の古絵図』などからもわかります。鶯ヶ谷のご老公によれば、ここに大江広元も祀られていたとおっしゃっていました。江戸期に島津と毛利が大倉山に自分達の先祖と称した墓を造るまでは、ここにお堂や参道があったそうです。これも大江広元の墓だった可能性があるのでしょうか。鎌倉遺構探索のごとく、真相は藪の中です。



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探索期間 2012年4月~2014年7月
記事作成 2014年8月6日

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