2014年9月19日金曜日

鎌倉を通っていた古東海道はどこへ?


鎌倉を通っていた古東海道ルート


江戸時代に整備された東海道を旧東海道、それ以前の東海道を古東海道と云います。古東海道は伊賀から伊勢・志摩・尾張・三河・遠江・駿河・甲斐・伊豆・相模・安房・上総・下総・常陸にいたる道筋です。もとはヤマトタケルの東征路で、律令期における駅路として継承され整備されたと云われています。西から下り相模国に入ると横須賀の走水から上総に向かうので、なんと、この古道は鎌倉を通っていたと考えられています。さてそこで、この古道が具体的に鎌倉の一体どの辺りを通っていたのでしょう。

Google map 鎌倉

鎌倉市教育委員会の調査報告書によれば、稲村ヶ崎から鎌倉に入り、車大路(あるいは大町大路)を東行し名越山を越え三浦に出るのが通説とされています。(地図画像①)また、大仏坂のある尾根を越え、車大路(あるいは大町大路)を東行し名越山を越えるのが延喜式(延喜年間901~923年)以前の道だとありました。(地図画像②)上地図画像の白線は現在の県道311号線で鎌倉時代では大町大路と呼ばれていた幹線道路です。そして車大路とは大町大路の南側に並行するようにあった道で現在は住宅街に埋もれ失われています。ですから厳密な検証はほぼ不可能となりますが、だいたい県道311号線の道筋が古東海道だったと考えられるようです。

大町大路 甘縄の近く

史跡が示す太古の歴史


車大路が存在しないとのことなので大町大路沿いに焦点を絞ってみます。道沿いに点在する史跡の歴史を調べると、特に甘縄から六地蔵に至る西側部分など、頼朝の鎌倉入り以前からあったものばかりだということに気付きます。

Google map 鎌倉
①稲村ヶ崎 ②極楽寺坂 ③虚空蔵堂 ④御霊神社 ⑤長谷寺 ⑥甘縄神社 ⑦大仏坂 ⑧染谷太郎時忠邸跡 ⑨和田塚 ⑩六地蔵 ⑪郡衙跡 ⑫大町四ツ角 ⑬八雲神社 ⑭元八幡

鎌倉の古東海道を行く


ということで古東海道だった可能性が高いこの大町大路を行ってみることにしました。まず、稲村ヶ崎から鎌倉に入った辺りにあるのが極楽寺坂下にある虚空蔵堂です。行基が縁起に登場するので、その伝承が正しければ8世紀頃既に存在していたはずです。(地図画像③)ちなみに古道は鎌倉のどの辺りから入ってどの辺りに抜けていったのかといったところまでは現在のところ断定はできないようです。ですから「稲村ヶ崎から鎌倉に入った」といっても市史にある稲村ヶ崎海岸道という地形の崩落で失われた古道から進入したのか、極楽寺坂の原型が既に存在していたのか、この辺りはよくわかっていません。

極楽寺坂下 虚空蔵堂前

虚空蔵堂から少し進んで有名な餅屋さんのある角を曲がるとあるのが坂ノ下御霊神社。こちらは創建時期が不明なものの、後三年の役(1083~1087)などで活躍した鎌倉権五郎景正が祭神として祀られているので、少なくとも鎌倉時代以前からあったと考えられています。(地図画像④)

御霊神社

御霊神社からも近い場所にあるのが長谷寺。長谷寺は天平八年(736)創建の古刹で、境内にある弁天窟は弘法大師参篭の地と伝わっています。そして長谷寺の前から鎌倉中心部に向かう道筋が大町大路となります。(地図画像⑤)

長谷寺から眺めた甘縄 画像やや左側に大町大路が通っている

長谷寺から東に進むとあるのが甘縄神社。こちらは和銅年間(708~715)の創建です。(地図画像⑥)神亀年間(724~728)頃まで鎌倉に邸を構えていたと伝わる関東八ヶ国の総追捕使だった染谷太郎時忠が創建に関わっていると伝わっています。さらにその染谷時忠が邸を構えていたのが江ノ電由比ヶ浜駅付近だと云われています。(地図画像⑧)また八幡太郎義家の出生の地がここ甘縄なんだそうです。

甘縄神社からも近い大町大路沿いに置かれている平盛久の石碑や庚申塔

大町大路を進み江ノ電和田塚駅付近。(地図画像⑨)和田一族のものと伝わる五輪塔群が置かれた一帯を和田塚と云います。こちらは現在では原型をとどめていませんが、以前は塚状になっていたと市史にありました。それもそのはず古墳時代の円墳跡だったそうです。古墳時代後期のものと推定されています。それにしても長谷寺・甘縄神社・和田塚と、この時点までで鎌倉にこんな古い歴史が存在したのかと驚く史跡ばかりです。

和田塚

和田塚からも近い六地蔵のある場所は重要な幹線道路の交差点となっています。(地図画像⑩)目前を東西に走る大町大路、南に和田塚、北に郡衙(律令期における役所)跡が所在しています。郡衙は現在の御成小学校及び鎌倉市役所辺りにあったことが発掘調査からもわかっています。ちょっとこの史跡だけ大町大路から少し離れてしまいます。(地図画像⑪)

六地蔵

六地蔵からさらに東に進むと若宮大路の下馬交差点。

若宮大路下馬交差点 この辺りは車も人も混雑する
若宮大路を横断して横須賀線線路を渡る なんか祠が見える

若宮大路・横須賀線線路を渡ると名越となります。大町四ツ角の交差点付近は鎌倉時代に商業地区の一つとして栄えていました。交差点を横切る街道は小町大路で、北に行くと妙本寺や宝戒寺、南に行くと辻薬師堂や九品寺などが所在しています。(地図画像⑫)和田合戦で朝比奈三郎が小町大路や大町四ツ角に姿を現していることが『吾妻鏡』に記されています。

大町大路 大町四ツ角の辺り
大町四ツ角からも近い安養院

大町大路から少し入った所にあるのが八雲神社。(地図画像⑬)八雲神社はもと祇園神社と云い八幡太郎義家の弟の新羅三郎義光の創建と伝わっています。また、この義光の子孫となる佐竹氏の邸が大宝寺にあったと云われています。もしかしたら義光の鎌倉の邸がこの辺りにあったからなのかもしれません。

大宝寺にある伝新羅三郎義光の墓

大町大路から少し離れてしまいますが、元八幡が道の南に所在しています。(地図画像⑭)この辺りが幻の車大路沿いだったのかもしれないと想像が膨らみます。もしくは元八幡の境内が往時では大町大路付近まであったのかもしれないと想像するのもありかもしれません。こちらは康平六年(1063)の創建で、今ではすっかり小じんまりとした境内です。

元八幡

大町大路に戻り進むと、またまた横須賀線線路を渡り長勝寺前を通り過ぎて逗子方面に向かうことになります。稲村ヶ崎同様にどの辺りで丘陵を越えたのかわかりませんが、もしかしたら名越坂の原型が当時からあったのかもしれません。古道はここから葉山駅に向かったと考えられています。

長勝寺手前の横須賀線線路
長勝寺裏山から 下部には県道311号線 向こうの丘陵部には名越坂

古東海道もうひとつの説


『鎌倉市史 考古編』では、稲村ヶ崎から海岸線を伝い光明寺裏山にある小坪坂を行くのが古道だとありました。実際にも畠山重忠が頼朝の鎌倉入り以前にこのルートを行軍している様子が『源平盛衰記』に記されています。当時の海岸線は現在より内側に深く入り込んでいたはずです。市史が云う海岸線の道とはもしかしたら大町大路、もしくは車大路なのかもしれません。ただ、出口を小坪坂としているので鎌倉市教育委員会の調査報告書とは異なる説となります。

小坪坂のある光明寺裏山から見た鎌倉

さて、それにしてもこうして大町大路沿いを調べるてみると、頼朝の鎌倉入り以前からあった史跡・旧跡だらけです。これらは大町大路(もしくは車大路の大まかな道筋)が古東海道だったという痕跡なのでしょうか。平安時代の旧跡どころか古墳までありました。古東海道だと断定することはできませんが、逆にこれだけの旧跡が確認されながら、これが古道ではないと反論する方が難しいかもしれません。ただちょっと気になるのは、車大路が失われていること、入口と出口が不明であること、また郡衙と元八幡の位置が大町大路から少し離れている点でしょうか。



カテゴリー 鎌倉研究部
探索期間 2014年7月
記事作成 2014年9月19日

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