2014年10月14日火曜日

北御門ハイキングコース 【後編】


ハイキングコース後編


北御門ハイキングコース後編です。(北御門ハイキングコース【前編】)頼朝法華堂跡(地図画像②)から西御門の谷戸の東側を沿って伝い回春院奥平場(地図画像⑦)まで来ました。ここから西御門の谷戸の西側尾根道を行きます。

Google map 西御門
①大倉幕府跡 ②頼朝法華堂跡 ③普慶寺跡 ④来迎寺 ⑤太平寺跡 ⑥東御門 ⑦回春院奥平場 
⑧回春院 ⑨建長寺 ⑩二十五坊跡 ⑪報恩寺跡 ⑫保寿院跡 ⑬新宮社 ⑭鶴岡八幡宮 
⑮三浦義村邸跡

回春院奥平場から進むと立派な樹があります。その太い幹からもきっとこの辺りの長老なのでしょう。私はあまり非科学的なことに首をつっこみませんが、この樹からは何か「気」みたいなものを感じました。撮影時は夏なので湿気が多くフレアとかオーブとか云われる白っぽい球状が映りこんでしまうことがよくあります。いつもはこのために写真が台無しになってしまいますが、下画像のものは何かその「気」が出ているような雰囲気に見えて素敵な感じになりました。回春院奥平場からこの辺りまでホント不思議なエリアです。

不思議な樹

しばらく尾根道はアップダウンを繰り返します。東側の尾根道には3つもの堀切があったことからこのアップダウンも壮大な堀切なのかと疑ってしまいます。そして土地が崩落したのか、急激に道が狭く険しくなる箇所があります。

急激に道が狭く険しくなる箇所 何かが現れそうな地形

尼御台所の下山場所か?


地図画像⑧の下辺りでしょうか、今回総じて6ヶ所で確認した堀切のうち最大の堀切が現れました。画像に記録されているGPS情報がいまいち不確かなためはっきりしませんが、どうやら回春院か二十五坊谷の境に来ているようです。堀切は申し訳ないのですが藪に覆われていたため画像を載せてもよく分からないので割愛いたします。さらにかなり大きめな土地の落ち込みが付近でみられました。とにかく一つ言えるのは、この辺りから二十五坊、もしくは新宮社のある御谷へ下りて行けたのではないかと思われる地形がみられます。政子さんが御所(地図画像①)から尾根道を伝って二十五坊谷へと向ったのであれば、きっとこの辺りから下りていったのだと考えました。

道か何かがあったのかと思うくらいのすんごい土地の落ち込み具合

報恩寺エリア


尾根道は報恩寺エリア(地図画像⑪)に突入します。報恩寺は、開基が上杉能憲、開山に義堂周信と、ビッグネームが創建に関わっています。それ相応の規模を有する寺院であったことが容易に想像できます。鎌倉市教育委員会の調査報告書によれば、この辺りで五段の平場とやぐらが確認できたとありました。しかし残念ながら報恩寺跡は現在中学校となっているためあまり近づけません。尾根道上では石組みが残された平場と大きめな堀切が確認できました。

報恩寺付近の尾根
石組みのある平場
分かりやすすぎる堀切

まさかのサプライズ


尾根道を進み報恩寺跡と保寿院跡の間となる地点で今回のハイキングコース最大のサプライズが待ち受けていました。なんと神社跡です。ホントびっくりしました。神社跡にあったものは、鳥居・狛犬・燈籠・お堂跡です。鳥居には「大正~年~」と刻まれていたので、建物自体はそんなに古いものではないようです。お堂があったと思われる場所には石組みがその堂跡を囲むように施されています。鳥居からお堂跡までの距離からしてそれ程大きな神社ではなかったと思われます。また鳥居の先(入口)は地図画像⑫の保寿院側を向いていて藪となっています。

まさかの神社跡
お堂の基礎部分と思われる箇所 周りには石組みと祠など

その後調べたところ、『新編鎌倉志』に白幡(白旗)神社という記述がみえます。報恩寺に付属した社で報恩寺廃絶と共に失われたとあります。位置が位置だけに「まさか?」と思いましたが、冷静に画像を見直すと狛犬と思っていたものはキツネです。wikipediaにキツネは稲荷社とあります。ですからこれは白幡神社ではないようです。それにしてもこの旧跡、私が見たどの資料にも載っていませんでした。何でしょうねコレ?。それにお堂はどこへ行ったのでしょう。


禁断のエリア


地図画像を見てもわかるとおり、ここからもう少し行くと八幡様の裏山となります。絶対に一般の人が立ち入ってはいけない場所です。とわかりつつもちょっとそちらに向ってみたところ、やはり厳重に封鎖されていました。画像はその用途はわかりませんが鉄線の向こうにあった建物です。八幡宮裏山に私が期待するようなものがある訳ではないと思いますが一体どうなってるのでしょう。

尾根上にあった建物 その向こうは八幡宮裏山

もう一つのストーリー


承元元年(1219)正月27日、将軍実朝が八幡宮で殺害されます。実朝を殺害した公暁は 「備中阿闍梨の雪下北谷の宅に向かわれ、食事をする時でも御首を手放さなかったという。」そしてまた「公暁は義村の使者が遅いので、鶴岡の後方の峰を登り、義村の宅に向っていた。」と『吾妻鏡』に記されています。そこで三浦義村の命を受けた長尾定景が「太刀を取って公暁の首を取った。」とあります。

鶴岡の後方の峰

「備中阿闍梨(八幡宮別当)の雪下北谷宅」から「鶴岡の後方の峰を登り」とは二十五坊谷から八幡宮裏山となるこの辺りではないでしょうか。さらに想像を膨らませると、公暁を討ち取った長尾定景は三浦邸(地図画像⑮)からこの尾根道を伝い二十五坊谷へと向ったのかもしれません。つまり両者は尾根道で鉢合わせしたのではないかとも受け取れる記述です。こちらも解釈が合っているかどうは別として、もしかしたらその現場がこの辺りだったと考えると面白いですよね。興味のない人からすればただの尾根道なのに、ちょっと想像しただけで歴史の舞台に迷いこんじゃうんですよ鎌倉って、ホント楽しいっすねぇ。



より大きな地図で 大倉山 を表示

探索期間 2012年8月 2014年9月
記事作成 2014年10月14日

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