2015年1月14日水曜日

二伝寺


山号寺号 戒法山宝国院ニ伝寺
建立   永世二年(1505)
開基   北条氏時


二伝寺は、玉縄から藤沢に向う旧道沿いに設けられた玉縄城の砦の頂部に所在します。玉縄城の南西に位置するこの砦を二伝寺砦と云います。その名のとおり、二伝寺がその名の由来となっています。そして面白いことに、二伝寺には、坂東八平氏の祖となる平良文の墓所が設けられていました。

Google map 玉縄
①玉縄城主郭 ②七曲坂 ③久成寺 ④二伝寺 ⑤高谷砦 ⑥天獄院 ⑦龍宝寺 ⑧長尾砦 
⑨大船観音 ⑩大船駅

二伝寺坂


『鎌倉市史 考古編』(以下市史)に「円光寺わきからS字形の急坂を登る。この坂をニ伝寺坂と云い、渡内から相模陣への古道である。」と記されています。往時では、二伝寺前を通る道が、藤沢方面へと向う幹線道路だったそうです(『まぼろしの二伝寺坂』)。そして砦は、この街道を守る重要な役目を果たし、二伝寺はその砦の中心部にあったものと考えられます。

Google map 二伝寺砦 西側を上にして角度を変えてます
①ニ伝寺 ②円光寺 ③貞宗寺 ④本在寺公園 ⑤久成寺 ⑥バス通り ⑦二伝寺坂

二伝寺砦


「相模陣の南西に当たるニ伝寺のある丘陵は、相模陣方面を主防衛方向と考えたもので、玉縄城にとって相模陣の西方側面に当たる極めて重要な地点である。敵がこの地点を占領すれば極めて近接地点に向い城としての好条件地点を与えることになるからである。」『鎌倉市史 考古編』(以下市史)より。

二伝寺の丘陵から眺めた景色

市史によれば、二伝寺砦では、主に二伝寺坂のある丘陵部南東側に平場などの造作が多く施されていました。また、丘陵地上部にある円光寺は、もともと二伝坂防衛のための平場だったともありました。さらに玉縄城全体にみられる傾向ですが、ここ円光寺前面一帯にも、往時では水田が広がっていて、有事の際には水濠として活用されていたと推測されています。玉縄城の主郭からも近い陣屋坂を登った辺りに、円光寺曲輪という名称が残されています。円光寺は、元和元年(1619)玉縄城廃城後に現在地に移されたと云われています。

円光寺からの眺め 往時は水田だった

二伝寺縁起


二伝寺は、寺伝によれば、永正二年(1505)に玉縄城主の北条氏時によって開かれました。当時の寺号は違うものでしたが、大本山光明寺に伝わる伝書が紛失した際に、本山伝の写し、つまり二つ目の伝書があったことから、二伝寺と呼ばれるようになったと伝えられています。

二伝寺

二伝寺境内も城郭という観点で見ると、とても面白い形状をしています。周辺の住宅街から階段を登った少し高い場所に本堂があり、そこからまた階段を登ると、墓地として活用されている平場があります。そしてさらに、市史が表現する「小土饅頭形」の丘陵が、二ヶ所で確認できます。私の浅い知識ではよくわかりませんが、中世山城に詳しい方であれば、興味深い造作かもしれません。

本堂の上にある平場からの景色

平良文墓所と小土饅頭の謎


「伝良文墓所の尾根頂の背面は、二段乃三段の平場をめぐらして、谷間からの攻撃を食いとめる様になっている」と市史にあります。境内奥にある竹林から丘状地形を登って行くと、平良文の墓所があります。

境内奥にある竹林付近
平良文の墓所となる小土饅頭型の丘陵頂部

平良文の墓所が、二伝寺丘陵の頂部だと市史にありました。また、ここを「小土饅頭型の丘陵」「墳墓」とも表現していましたが、何か意味ありげに聞こえるのは私だけでしょうか。市史を執筆した赤星先生は、もしかしたらこの塚を古墳だと考えたのかもしれません。でも確証がないので、せめて小土饅頭という隠れたメッセージを残したとか・・。


平場には、良文・忠光・忠通の村岡三代の石塔が置かれています。石塔はそれらしいものが用意されていますが、室町期のものです。全く時代が合いません。二伝寺が何故ここを平良文の墓所としたのかわかりませんが、良文がこの辺りに葬られたという伝承があったのでしょうか。


壺井三社大権現跡


二伝寺から連なる丘陵沿いに本在寺公園という場所があります。現在は途中で尾根が断ち切られていますが、迅速測図(明治時代の地図)を見ると、以前に丘陵が繋がっていたのがわかります。小田原城開城後に、徳川家康が村岡・玉縄周辺を福原孫十郎という人物の案内で巡回しました。家康は、孫十郎の案内で峰という山に登り、玉縄城周辺を遠望したと云われています。そのような由縁から、家康の死後に福原家によって家康の分霊がこの地に祀られました。ちなみに二伝寺の縁起に福原左衛門忠重なる人物が登場します。きっと玉縄北条氏の家臣で近世では渡内の名手だったと思われます。

家康も見たかもしれない本在寺公園からの景色

壺井三社大権現とは、家康の他に源頼義・義家を加えた3人を祀ったものです。大阪にある河内源氏の祖を祀る壺井宮という神社がその名の由来と考えられています。ここにあった石祠は近くにある日枝神社に移されています。福原孫十郎はどのような心境で家康と接していたのでしょう。この新しい領主に取り立ててもらおうと意気込んでいたでしょうか、それとも家族や村の皆と田畑を耕し平和に暮らしたいと願ったでしょうか。私なら出世を願うと言いたいところですが、それは戦争がどれだけ悲惨なものなのかを知らないからでしょう。



探索期間 2013年8月 2014年12月
記事作成 2015年1月14日

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