2015年2月18日水曜日

鎌倉の涙


後深草院二条(『後深草院二条と鎌倉』)が記した『とはずがたり』には、二条と飯沼判官の怪しい関係が垣間見えます。二人が詠みあう歌には「涙」がキーワードとなっていました。また『吾妻鏡』では誰かの泣いている描写がいくつもみられます。今回はこの時代の「涙を流す」「泣く」ということを考察してみました。


後深草院二条と飯沼判官


後深草院二条の鎌倉滞在中、二条と飯沼判官は、夜通し歌を詠みあうなどの交流を重ねた間柄で、周囲からは「怪しい、どんな間柄なのだろう」と噂されていました。二条がいよいよ鎌倉を発つそのとき、飯沼判官が「いま一度続歌をしましょう」とやってきます。以前に飯沼判官が二条に「涙川と申す川はどこにあるのですか」と尋ねていましたが、このとき詠んだ歌がこちら。(次田香澄著『とはずがたり』から意訳だけを記します)

「しばしとどまって下さいとは言えないあなたとの間柄ゆえに、涙川は私の袖にあったものを(今知りました)」(涙川とは実際にある地名ではなく、こういう場合に用いられる表現で『伊勢物語』にその用例がある。)

そして旅の着物などを二条に渡し、続けてこう詠みます。
「せめてこの衣を着てなりと身を放さないで(私を思い出して)下さい。こんなよそながらの御縁だったとしても」

二条は二人の関係を噂する世間の声があることを踏まえこう飯沼判官に返します。「前に疑われても釈明しなかった、その濡衣も、今からあなたを思う涙で朽ちてしまうでしょう」

飯沼判官が住んでいた経師ヶ谷からの景色

恋人ならまだしもなんか大げさなような気がしますが、二条さんによれば、あくまでも友達とのことです。現代語訳をした次田先生は、(二条が)「淡い恋愛的感情が通っているのを看取する」「彼女の歌も珍しくしっとりした情感を湛えている」とくみ取っています。それにしても飯沼判官の「涙川は私の袖にあった」なんてシャレたこと言っています。言いたくともこんなこと言えませんよね。これが上層階級の男女の付き合いなのかもしれません。


飯沼判官


何かと京の都と比べては関東のダメだしをする二条さんですが、飯沼判官に対しては「すき者」「なさけあり」と好意的に評しています。彼女が文中で記すこの「飯沼の判官」もしくは「飯沼の新左衛門」とは、平頼綱の次男で、名を資宗と云います。年齢はこのとき23歳ぐらいで、検非違使尉となります。注釈に「京の貴紳にさえその容姿態度を賞賛された好男子」とあったので、新左衛門はイケメンだったようです。「やっぱり顔じゃね?」みたいな、二条の男への価値感も現代女性と大して変わらないんじゃないかと疑ってしまいます。

木賊色の着物

二条が文中で「飯沼の新左衛門が木賊色の狩衣でお供を申し上げている。すばらしいことである。」と褒めています。木賊色とはどんな色なのかと調べたところ、こちらの染呉服製造卸のみやこさかえさんに画像がありました。深緑と言ってもいいのでしょうか。ちょっと高級感がありますね。この色を着ると二条に褒められるのかもしれませんが、カッコ美男子に限るでしょうか。ちなみに飯沼判官は、二条が鎌倉を発った4年後の永仁元年(1293)の4月に、平禅門の乱で父の平頼綱らと共に誅されることになります。享年27歳でした。長勝寺のある辺りを経師ヶ谷と云いますが、平頼綱はその辺りに邸を構えていたと云われています。


吾妻鏡の泣いている場面


それでは吾妻鏡の「涙を流す」場面もみてみましょう。自身で覚えている限りの箇所をピックアップして要約してみました。

治承四年(1180)8月17日
山木判官邸への討入りに際し、洪水のため川を渡れず遅れて参上した佐々木四兄弟を迎えた頼朝が、討入りが遅れたことを残念だと涙を流しました。
治承四年(1180)10月1日
まだまだ情勢不安定の中、醍醐禅師が危険を顧みず修行者に扮して頼朝に会いにきた際、そのけなげな姿勢に頼朝は思わず泣いて感激してしまいます。

山木判官邸跡 香山寺からの景色

治承四年(1180)9月9日
頼朝が石橋山合戦での敗戦後、房総半島に渡り、千葉常胤に恭順の意を求めたところ、常胤は、頼朝の源氏再興に対する並々ならぬ意気込みに感動し、涙を流し頼朝を出迎えました。
建久六年(1195)12月12日
千葉常胤が美濃国蜂屋庄を恩賞として頂きたいと申し出たところ、頼朝は、それは叶わないが、他の土地を必ず用意するといった返事をしたことから、頼朝の細やかな配慮に感激し涙を流しました。

伝千葉常胤墓(相馬師常墓やぐら群)

文治五年(1189)6月13日
奥州で討たれた源義経の首実検を腰越で行ったところ、和田太郎義盛や梶原平三景時ら、その場にいた者皆が泣いたとあります。

義経が腰越状を作成したと伝わる満福寺からの景色

建暦三年(1213)5月4日
和田合戦で朝比奈三郎義秀と戦って負傷し、思うように歩けなかった名越朝時が、北条泰時に介抱され小御所に入っていきました。このとき名も無き古老がこの光景を見て涙を流したとあります。大怪我をした朝時が哀れだったのか、それとも優しい泰時兄さんに感動したのか、ちょっとわかりませんが、吾妻鏡のことですから、後者でしょうか。

名越流北条氏の名越山荘があった弁ヶ谷

壽永元年(1182)11月12日
頼朝の愛人亀ノ前の存在を知った政子が、牧三郎宗親に命じて亀ノ前の住む伏見広綱の飯島の屋敷を破壊させました。これに怒った頼朝は、牧三郎宗親を呼びつけ、その行いを糾弾し、髻を切り落としてしまいます。宗親は泣いて御所から逃げていきました。

和賀江嶋(飯島)

正治二年(1200)3月14日
岡崎義実が御台所政子の邸に訪れ、自身の困窮を泣く泣く訴えました。御台所政子はこれにもらい泣きをし、義実に領地を与えるよう将軍頼家に伝えています。

證菩提寺に祀られている岡崎義実

こうやって並べると確かに皆さん結構泣いてますが、それなりの事情があったようにも思えます。頼朝に凄まれて恐怖のあまり泣いてしまった牧三郎宗親は可哀そうだけど、ちょっと恥ずかしい涙ですね。千葉常胤や岡崎義実などは、涙を流すという感情表現を利用して相手に訴えているようにもとれる気がします。


鎌倉の人たちにとっての涙とは


鎌倉時代の言語は、現在のように細かいニュアンスを伝えられるほど完成されていなかったため、この時代、泣くという行為は珍しいことではなく、感情表現の一環として受け止められていたといった旨がどこかで記されていたのですが、申し訳ありません、ソースが見つかりません。こちら参考資料に記した著書のどこかにあったはずです。


頼朝をはじめ結構みんな泣いていましたが、特に相手の言動に感激した場面で涙を流す場面が多かったように思えます。上記したように、涙が感情表現の一環だったという説を踏まえると、頼朝や千葉常胤なんかは、あなたの心遣いが嬉しいという気持ちを最大限に表現するためのコミュニケーション・ツールとして、涙を流しているようにも受け取れます。ですから私たちが現在メールやラインなんかで感情を表す絵文字やスタンプを文章の最後に付けるような感覚だったのでしょうか。ラインなんかで、仕事が忙しくて会えないと伝えると、恋人なら実際に泣くことはなくとも、「寂しいな」という気持ちを込めて泣いているキャラクターのスタンプを送ってきたりしますよね。ですから二条と飯沼判官のやりとりもそんな感じに近かったのかもしれません。あなたに好意を持っていますという気持ちを込めて「涙」という大げさなワードを使ったのかもしれません。

新左衛門「涙川って・・オレの袖にあったんかい」

まとめ


台湾で向こうの人と一ヶ月ぐらい仕事をしたことがあります。その台湾の彼が別れ際に英語で書いた手紙を渡してきたのですが、色々と感謝の気持ちを綴った最後に、「You are my Hiro(Hero)」とありました。「Hiro」は私のファーストネームなので、「Hiro」と「Hero」をかけてくれたんですね。なんて素敵なんだろうと思いましたが、これって男同士ですし、日本人同士だとこんな照れくさいことなかなか言いませんよね。ただ、彼は向こうで人気のアイドル、つまり芸能人だったので、リップサービスに長けていたのかもしれません、が、例えそうだとしても、とても印象的だったのを覚えています。

(画像はGATAGさんから頂きました。)

鎌倉時代の言葉が現在と比べてどのように不完全だったのか、いまいちピンときませんが、外国人などとコミュニケーションをする際、細かいニュアンスが伝わらない場合は、あの台湾の彼のように、大げさに気持ちを表現したりすることってありますよね。鎌倉時代の人たちも不完全な言語を補うため、細やかに相手を気遣っていたのかもしれません。また、何かを強調したいときには、大の男でも涙を流して訴えていたのでしょう。そう考えると、現代に生きる我々、特に日本人って感情表現が乏しくなっているように思えます。『鎌倉武士の遺伝子は何処へ』という記事で、文明の発展とともに人類の身体能力が失われてきたのではないかと記しましたが、感情表現も文明の発展によって、もしくは言語の発達によって失われてきたのかもしれません。


カテゴリー 鎌倉研究部
記事作成  2015年2月18日

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