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岡崎四郎義実
岡崎義実は、三浦義継の四男で、義明の弟にあたります。苗字は岡崎(現在の平塚市・伊勢原市)を本拠地としたことに由来します。平家討伐の旗上げ当時から頼朝に付き添ってきた古老で、頼朝からの信頼も厚く、高く評価されていたと云われています。しかし幕府の体制が軌道に乗った後は、文献・資料などであまり浮いた話が伝わってきません。軍人としては優れていたものの、政治家向きではなかったのかもしれません。後述するように、晩年は生活に困窮するほどの尻すぼみな人生となっていたようです。
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三浦氏略系図 |
オシャレな?岡崎義実
正治二年(1200)3月、岡崎義実は、貧乏で生活のあてもない困窮を訴えるために、御台所政子さまの邸にやってきます。このとき80過ぎの老人であった岡崎義実は、鳩の杖をつきながらやってきたと『吾妻鏡』に記されています。私はずっとこの場面が気になっていました。だって岡崎義実ともあろう大物御家人が鳩の杖を持っているんですよ。可愛いし、この時代にそんなオシャレなものがあったことにも驚きます。しかも「鳩の杖をついて」と、幕府の公的記録となる吾妻鏡がわざわざそんな事を記す必要があるのかと不思議に思います。
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政子さまの邸跡 大御堂ヶ谷の怪しいポイント |
私の知識ではどういうことなのかよくわかりませんが、吾妻鏡には、誰々がどういう格好をしているなど、けっこう事細かい描写がたまに記されています。例えば、建暦三年(1213)3月、「和田義盛(木蘭地の水干と葛袴を着た)が今日また御所に参った。」とあります。何故わざわざ義盛の服装を記す必要があるのでしょう。それとも木蘭地の水干と葛袴が特記するほど珍しいことなのでしょうか。一体どのような意図でこのようなことまで記すのか悩んでしまいます。
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木蘭地色の着物 |
ちなみに木蘭地の色とはどういうものなのか調べたところ、リサイクルきもの福服さんに画像がありました。結構渋い色ですし特記するような奇抜な服装でもなさそうですけどね。
現代にもあった鳩の杖 そして意外な事実
ということで話を戻しますが、鳩の杖って現代でもあるのかと思い調べたところ、残念ながら岡崎義実モデルではありませんでしたが、とにかくありました!画像は京都つえ屋というステッキ専門店のものです。義実もこんな感じの杖を持っていたのでしょうか。
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京都つえ屋の鳩の杖 杖の中に薬などを入れられるようになっている |
さらに興味深い事実がwikipedeiaに記されています。鳩の杖というのは、もともとは中国の史書『後漢書』にその存在が記されていて、それを日本が模擬したそうなんです。奈良時代では霊壽杖と呼ばれ既に日本にあったようで、そもそも「ハトは物をついばむときにむせないとされる」ことから、鳩の杖を80歳以上の老人に贈るとありました。ですから岡崎義実は、オシャレではなく、きっと誰からか鳩の杖を贈られ、それを使用していたのかもしれません。また、この「鳩の杖を80歳以上の老人に贈る」ということからも、吾妻鏡がわざわざ「鳩の杖をついて」と記述したのは、それだけで岡崎義実が年老いた老人であるということが当時の人たちには伝わるのかもしれません。
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由比ヶ浜にいたほのぼの鳩カップル |
岡崎義実ほどの御家人が何故困窮していたのか
岡崎義実ともあろう御家人が何故に泣く泣く御台所さまに困窮を訴えなければならなかったのでしょう。本人によれば、石橋山の合戦で失くした我が子佐奈田義忠の菩提を弔うために寺に寄付したからだとありましたが、それでも彼ほどの御家人の財産が無くなるものなのでしょうか。坂井孝一著『曽我物語 』にちょっと興味深い記述がみられました。
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曽我物語 仇討ちの場面 |
まさかのクーデター主犯説
建久四年(1193)5月、頼朝が催した富士野の狩りで、曽我兄弟の仇討ち事件が起こります。これは頼朝政権の転覆を狙ったクーデターだったという説がありますが、このとき、源範頼が謀反の嫌疑をかけられ失脚してしまいます。そしてこの範頼の失脚とほぼ同時期に大庭景義と岡崎義実が出家しています。坂井先生によると、「これは仏道修行のための出家ではなく、鎌倉追放の刑という意味をもっていたといえる。おそらく二人は、範頼の謀反に関与した咎により処罰されたのであろう。」とありました。大庭・岡崎ともに「平時」の体制に乗り遅れた御家人で、建久年間には目立った活動もないことから、源範頼を擁立し、頼朝の体制を覆すクーデターを企てる動機があったと考えられるそうです。
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源範頼の幽閉場所だったと伝わる修善寺日枝神社 |
ちなみに大御所永井路子先生の見解が、この大庭・岡崎クーデター主犯説なんだそうです。曽我兄弟の面倒をみてきた北条時政の犯行だとする説もありますが、永井先生によれば、状況証拠からも頼朝だけでなく北条時政をも狙ったクーデターだと考えられるそうです。ですから岡崎義実は、出家した際に領地などいくらか財産を削られていたのでしょうか。だから晩年になって、御台所さまに泣く泣く困窮を訴えなければならない状況に陥っていたのかもしれません。
辻褄が合う御台所の仕打ち
岡崎クーデター主犯説だと、時間が経過したとはいえ、もう既に頼朝が亡くなっているとはいえ、御台所政子が岡崎義実という頼朝政権の転覆を狙った人物と面会するのだろうかという疑問が生じます。しかし、ちょっと面白いことに、岡崎義実が「生活に困っている」「子孫に遺す遺産もない」と泣く泣く御台所に困窮を訴えているのに、彼女が義実に報いたのは、新たに領地を与えるなどという義実が望んでいたであろう期待を遥かに裏切り、義実の子の土屋義清を寿福寺の本願主に据えるという名誉を与えただけのものでした。
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本願主土屋義清は和田合戦の後寿福寺に葬られた |
当の義実本人がこれについてどう思っていたのかはわかりませんが、少なくとも自分が望む期待値を遥か斜め下にいった返答だったのでしょう。もしも岡崎義実クーデター主犯説が正しければ、御台所の返答はその一件に影響された結果だったとも考えられるのかもしれません。
岡崎堂
上郷の證菩提寺に岡崎義実が祀られています。はじめは無量寺という寺号でしたが、義実の死後、これを大日堂に祀り岡崎堂と呼んで次第に寺の中心となったので、義実の法名「證菩提」を寺号とするようになりました。義実は、鳩の杖をついて御台所政子の邸に訪れたそのわずか3ヶ月後に亡くなっています。享年89歳でした。同族の和田親子、そして子の佐奈田義忠や土屋義清らが合戦で討死している中、彼は大往生でこの世を去りました。
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證菩提寺に祀られている岡崎義実 |
カテゴリー 鎌倉研究部
記事作成 2015年2月7日