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妙本寺の地形
一般的に鎌倉の谷戸は「コ」の字型をしていると言われますが、妙本寺が所在する比企ヶ谷は、あたかも来る者を拒まずといった様相で、大きく口を開けたような、もしくは大きく手を広げたかのように「く」の字型になっています。将軍実朝が避暑地として比企ヶ谷に訪れている様子が吾妻鏡に記されています。
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Google map 比企ヶ谷妙本寺
①蛇苦止堂 ②平場 ③新釈迦堂跡平場 ④祖師堂平場 ⑤総門 ⑥田代観音堂跡 ⑦常栄寺
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妙本寺の中心伽藍(地図画像④)は丘陵中腹に所在します。そこから少し高い位置に②と③の平場が存在し、往時では新釈迦堂があったと伝わっています。また、背後にある尾根道は祇園山ハイキングコースとして多くの人たちに親しまれています。ひな壇状地形が確認・体感できる典型的な鎌倉の谷戸の形状をしています。地図画像⑦は、ぼたもち寺の名で知られる常栄寺です。龍ノ口の処刑場に連行される日蓮にぼたもちを渡した桟敷尼の邸跡と云われています。そしてこの桟敷尼が妙本寺開山の比企能本と親族だという説もあるので、常栄寺の辺りまでが比企ヶ谷なのかもしれません。また、地図画像⑥は、資料によって異なりますが、田代観音堂跡とも伝わっています。石橋山合戦から頼朝に付き添っていた田代冠者信綱という人物に由縁する史跡です。現在はただの住宅街です。
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妙本寺四季折々 |
いつも季節の花々で彩られた美しい境内は、まさに鎌倉の魅惑の史跡の一つと言えるでしょう。そんな妙本寺の地形に今回は着目してみました。
新釈迦堂跡丘陵部
新釈迦堂跡の丘陵部寄りには、大きめな堀切と古墳時代末期横穴墓(以下末期横穴)と思われる横穴が数基存在します。妙本寺境内だけでもこの末期横穴がいくつもみられますが、妙本寺に限らず祇園山ハイキングコースが通る丘陵部全体で末期横穴が確認できます。この辺りは東勝寺が近接するように、鎌倉時代では北条氏得宗家の勢力圏でしたが、この横穴群からも7~8世紀頃から権力者の聖域だったようです。権力者が好む場所は時代が変わっても同じようです。
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妙本寺丘陵部の尾根道 |
丘陵部尾根に横たわるこの掘割状地形は、あたかもハイキングコース尾根道と妙本寺境内を区分けする境界線のようにも思えますが、新釈迦堂から尾根に出るための道の名残りのようにも思えます。横穴が足場も定まらないような場所にあることからも、この辺りの地形も崩落などによって、昔の姿を止めていないのかもしれません。ですからこれが境界線を意味する堀切なのか、通行路としての掘割なのか、判断は難しいところです。
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堀切 |
尾根道は意外にも歩けたので面白かったです。下画像にあるように新釈迦堂跡や祖師堂を上から眺めることができたりしました。
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下に見えるのが新釈迦堂跡 |
蛇苦止堂縁起
建仁三年(1203年)、将軍家外戚として権勢を強めた比企一族でしたが、北条氏をはじめとする鎌倉中の御家人から総攻撃を受け、比企ヶ谷にて滅びました。それから57年後、北条正村の娘が比企能員の娘の亡霊に憑依されたため、その能員の娘を祀る社を建てたのが、蛇苦止堂の始まりと云われています。また、讃岐局と呼ばれる比企能員の娘が、蛇苦止堂にある井戸もしくは池に飛び込んで自殺したと云われています。
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比企一族の墓 |
蛇苦止堂
総門から祖師堂がある中心伽藍に向わず左手に進んで階段を登ると蛇苦止堂となります。蛇苦止堂は妙本寺境内で最も標高の高い所に位置しているようです。
蛇苦止堂参道 |
蛇苦止堂のある平場を『東勝寺跡・妙本寺周辺現状測量調査報告書』では、一幡の小御所跡と記されていました。ですからここが比企の乱における一族の最後の抵抗場所となるようです。蛇苦止堂の敷地はそれほど広くありませんが、前述したように妙本寺境内で最も標高の高い所に位置しているため、警備上の観点からも要人を囲う絶好の場所となるのかもしれません。
蛇苦止堂平場 |
そして面白いことに、蛇苦止堂の奥となる丘陵部に複雑な地形造作がみられます。蛇苦止堂のある平場からもう一段高い場所に平場が施されていて、近くの丘陵部壁面には横穴が残されています。こちらの横穴も中世にやぐらとして活用されたのかもしれませんが、その形状からももとは末期横穴かと思われます。この一段高い平場ですが、いつの時代かわかりませんが、横穴の存在からも何かがここにあったとしか考えられません。
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蛇苦止堂から奥に行くとこんな感じ |
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登ってみると平場が・・ |
さらにここから尾根に出ると、丘陵部壁面が垂直に削れられています。ただの石切り跡かもしれませんが、色々な想像が膨らみます。蛇苦止堂平場が一幡の小御所跡だったとすれば、城郭とも受け取れますが、往時からの造作の名残りであればという話です。鎌倉時代草創期にここまでの造作をするのかどうかは微妙な感じもしますが、鎌倉時代からあったと考えると夢があります。
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丘陵部に施された垂直の壁面 |
蛇苦止ノ井は自殺した讃岐局の伝承もあってか、特別な雰囲気を感じます。こういう言い方は不謹慎かもしれませんが、とても妖しい美しさです。特に真夏に見た緑色に濁った姿が印象的で今でも目に焼きついています。
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蛇苦止ノ井 |
若狭局のその後
比企能員の娘の若狭局は、二代将軍頼家の妻となり、嫡子一幡を産んでいます。彼女は定説上、比企の乱で一族と共に亡くなっていると考えられています。一方で『愚管抄』によると、一幡と共に逃げ、しばらくして北条氏に捕らえられ殺害されたとあるそうです。どちらにしろ比企の乱からわずかの間に亡くなっているようです。妙本寺では、この将軍頼家の妻となる若狭局と蛇苦止ノ井で自殺した讃岐局を同一人物としています。
妙本寺境内にある横穴に祀られた女性の石像物 |
そしてここでなんと、若狭局がその後も生きているという説が清水清著『甦る比企一族』に述べられていました。比企氏の本拠地である埼玉県東松山市にある串引沼(奇比企沼)では、若狭局が頼家への想いを断つために形見である鎌倉彫の櫛を投げ入れたという伝承が残されているそうです。しかも比企尼もこの時未だ生きていたようで、若狭局と共にその場で涙を流していたとありました。若狭局は、その地で尼となり、草庵を営み寿昌寺というお寺を創立したそうです。
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カテゴリー 探索記事(祇園山ハイキングコースエリア)
記事作成 2015年5月2日