![]() |
山号寺号 三王山安楽院不断寺
建立 寛元四年(1246)
開基 北条経時
中興開山 教誉
不断寺はもともと鎌倉の執権経時の屋敷内にあったと伝わっています。新善光寺・最宝寺などと同じく、鎌倉からの引越し組みです。漁港のある長井の海岸線沿いに位置します。
![]() |
Google map 長井 |
不断寺縁起
『三浦半島の史跡みち』(以下史跡みち)によれば、寛元四年(1246)の創建当初は鎌倉笹目山麓の安達館裏の経時の屋敷内にあったが、文禄元年(1592)に教誉がこの地に移したと伝えるとあります。また寺号は浄土宗十二光仏からとったもので、一漁村長井村の繁栄が永遠に絶えないようにと願いを込めたものであると云われています。ですから寺号は長井に来てから付けられたもので、鎌倉笹目にあった頃は院号でもある安楽院と称していたのでしょう。不断寺という言葉の響きがカッコイイと思いました。
![]() |
不断寺から路地を抜けるとすぐ海 |
『史跡みち』に「鎌倉笹目山麓の安達館裏の経時の屋敷」とあるように、経時の屋敷が笹目にあったようです。経時が死去した際、『吾妻鏡』には経時が笹目の山麓に葬られたと記されています。
不断寺境内
境内は広くありません。一目で見渡せます。本堂に鐘楼、そして往時の裏山部分は宅地開発で失われています。山門を支える脚が四本ありますが、二本は木材、あとの二本はなんと石材という見たこともないスタイルです。こだわってこうしているのか、応急処置なのかは住職に聞いてみないとわかりません。できればこだわってこういうスタイルにしていることを願っています。
![]() |
不断寺の山門 |
三浦半島ではほとんど見ない三鱗紋に違和感を感じます。最近は三浦半島に集中して訪れているので、久しぶりに北条氏の家紋を見た気がしました。アウェーにポツンと北条氏の拠点があるような感じです。経時の母は安達氏ですが、祖母は三浦氏出身の矢部禅尼となります。三浦半島と全く縁がないという訳ではないようです。
![]() |
不断寺本堂 |
丘陵部寄りには無縫塔などの石塔類が置かれてます、歴代住職のお墓でしょうか。そして横穴がありましたが、史跡みちなどには何も記されていなかったのでこれは防空壕の類でしょうかね。とにかくふさがれていて確かめようがありません。残念ながらやぐらではないようです・・ということにしておいた方が私も何の悔いもなくここを離れられます。
![]() |
無縫塔などの石塔類 |
![]() |
謎の横穴 |
脇道から往時の裏山部分であろう丘陵中腹に向えます。お寺の側面に結構な数の庚申塔が置かれていました。
![]() |
庚申塔類 |
登ると海が見渡せます。長井村の繁栄が永遠に絶えないようにと願いを込めた中興開山の教誉和尚の気持ちが伝わってくるようです。神社のような建物がありましたが、何も記されていなかったので社号は不明です。
![]() |
不断寺裏山から |
![]() |
北条経時供養塔
宅地開発されてしまった裏山部分に経時の供養塔が置かれています。以前からここに祀られていたのかもしれません。文化四年(1807)の銘が刻まれています。不断寺は光明寺の末寺です。本山である鎌倉光明寺と同じく「お十夜」(十夜法会)が営まれているそうです。そういえば光明寺にも経時の供養塔がありましたね。
![]() |
北条経時供養塔 |
経時の執権の就任期間はわずか4年、そして寛元四年(1246)3月に黄疸により出家を遂げた後わずか23歳で病死しています。ちなみに森幸夫著『北条重時』にありましたが、極楽寺殿北条重時は執権の経時が死去しても鎌倉に下向することはありませんでした。当時は京の六波羅探題にいたので、任務のためにわざわざ鎌倉に向うことができなかったとも考えられますが、経時から執権職を引継いだ時頼と蜜月の関係にあったことからも、単純にあまり経時を好んでいなかったのかもしれませんし、また、経時のあまりにも若すぎる死にこの重時と時頼が関係しているのではないか・・なんて考えてしまいます。
![]() |
カテゴリー 探索記事(エリア別 横須賀)
記事作成 2015年7月16日