2015年8月17日月曜日

南下浦


三浦市の南下浦地区をめぐりました。全然近くはありませんが駅でいうと京急三浦海岸駅、もしくは三崎口駅が最寄り駅となります。福寿寺というお寺の近くに三浦義村の墓が残されています。ですからこの辺り往時は三浦宗家の領地だったのかもしれません。その義村の鎌倉邸は八幡宮に隣接する横浜国立大付属小学校にあったと伝わっています。その邸位置からも彼がどれだけ大きな権力を持っていたのかが伝わってきます。ということで今回の行き先はそんな義村さんに関係の深い場所となります。

Google map 南下浦

三浦半島の先端へと海岸線を伝います。房総半島がすぐ目の前に見えます。房総半島にも多くの所領を有していた三浦一族ですが、向こうの土地を開拓したくなる気持ちが伝わってきます。だって房総半島がすぐそこにあるように見えます。何も情報がなかった古代の人たちは海の向こうに見えるあの土地をどんな場所だと思っていたのでしょう。情報ってとてつもなく大切なものですけど、情報がないのもそれはそれで逆に夢がありますね。

三浦海岸からの景色

素敵な海岸線県道215号をしばらく行くと道の海岸側に丘陵の削り残しがみられました。内陸側は丘陵がそびえています。ですからこの道は稲村ケ崎の大掘割のように近現代で整備された新道なのかもしれません。昔の人は稲村道のように山伝いに歩いていたのかもしれないと想像が膨らみます。

道の左右に丘陵

白山神社


三浦海岸駅方面からしばらく進んだ山寄りに入っていくとあるのが白山神社です。いつからあったのかはわかりませんが、『三浦半島の史跡みち』に「貞亨元年(1684)菊名左衛門重氏の碑が建つ丘から移転してきた」とありました。

白山神社

そしてなんと、この白山神社には古墳時代末期横穴墓があります。私の鎌倉遺構探索が三浦半島編に突入して以来、なかなか横穴にお目にかかれなかったので、とても貴重な場所だと期待して訪れました。

白山神社にある古墳時代末期横穴墓

横穴墓は切妻型というだけでも貴重なのにとてつもなく大きく風化も少ない逸品です。内装の柱や棟部分が浮彫り状になっており立体感を強調する芸術的な作品となっています。被葬者は氷蛭郷(ひひるごう:現在の菊名・金田・三戸・宮田・和田を含む一帯)を統率した郷長などの有力者と推定されています。また、白山神社内の石造物に貝がたくさん紛れていました。海の近い土地柄ならではでしょうか。もしくは往時はここ白山神社まで入江だったのかもしれません。

白山神社の石造物 貝がいっぱい

白山神社に隣接する法昌寺にも怪しい横穴らしき造作がありましたが、こちらは風化しすぎてよくわかりません。法昌寺は江戸時代に代官の長谷川七左衛門長綱が創建したとありました。また、この辺りの地形は三浦道寸義同が後北条氏の軍勢を防いだと伝える砦跡だという伝承が残されており、その名もズバリ城山と云うそうです。裏山は法昌寺の墓地として開発されており、それら遺構が残っているのかどうかは不明です。

法昌寺のやぐらのような造作

金田


白山神社から三浦義村の墓を目指します。目的地が近づくと丘陵に大きめな横穴がありました。やぐらかと思いましたが、神奈川の海岸線には多くの防空壕の類が残されているので一概には断定できません。この辺りを金田と云うそうです。漁港で賑わっているようです。

金田港
謎の横穴

『三浦半島城郭史』に「上総介が弟に金田大夫と云う者は義明の婿なりければ70余騎を率いて~」と『源平盛衰記』からの引用がみられるので、この義明の婿で上総介の弟となる金田大夫なる武士がこの辺りを領していたのかもしれません。衣笠合戦で三浦方として参戦した模様です。ちなみに「金田」「金子」など「金」がつく苗字って朝鮮半島から来た在日の人たちによくみられるので、てっきりその方面の固有名詞かと思っていましたが、この金田大夫の件からは、もともと日本にあった名前だということがわかります。ややこしいですね。

福寿寺


金田港を奥に行くとあるのが福寿寺です。階段を登った丘陵中腹に位置します。私が訪れると、来客を知らせるセンサーが室内で鳴っているのがわかりました。本堂を見学しようにもそのセンサーがずっと反応しているので、申し訳なく思えてきて早々にこの場を立ち去りました。きっとほとんど観光客など来ないのでしょう。檀家さんが訪れるだけの地域密着型の小さなお寺のようですが、正治二年(1200)に三浦義村が創建したという歴史的ブランドを兼ね備えています。

福寿寺

お寺からさらに当時の裏山部分となるのでしょうか。ハイキングコースのように登り道が連なっていたので向ってみました。

福寿寺裏山 ハイキングコース?

「寺の裏山には松塚・岩浦の塚という2つの塚が残されている。十三塚と呼び多数あったが農業のために崩されてしまった。」と『三浦半島の史跡みち』とあるように、頂部は一面畑となっているので観光客がずかずかと入り込む雰囲気ではありません。頂部から見える金田港の景色を眺め、塚を確認するのは断念することにしました。それにしても十三塚って田谷の洞窟付近にもそのようなものがあるとどこかに記されていたような気がします。十三という数字からも十三人の墓というよりやはり仏教的な意味合いなのでしょうか。

福寿寺裏山頂部
裏山から眺めた金田港

頂部にある畑からまだ道が続いていたので奥に進んでみると今度は庚申塔がありました。もしかしたらこの尾根道はただの農道ではなく、昔から地元の人たちの生活道として活用されていたのかもしれません。

庚申塔

ちなみに福寿寺の近くでふと目を地面に向けると、何やら古そうな石塔の一部らしき破片が落ちていました。気のせいかもしれませんけど・・

白○の部分

三浦義村の墓 南向院跡


福寿寺からも近い場所に三浦義村の墓があります。こちらも福寿寺同様階段を登った丘陵中腹に位置します。ここは福寿寺の塔頭で南向院跡でもあるそうです。


三浦半島で史跡をめぐると、江戸末期頃から近代にかけて三浦一族の末裔と云われる人たちが墓などの整備をあちこちでしていることがわかります。中には全く歴史的な裏付けがない史跡もありますが、こちら義村の墓に限っては、義村の院号が南向院とのことなので、ここにある義村の墓と伝わる石塔は本人のものである信憑性はかなり高いかもしれません。『新編相模国風土記稿』に七尺(だいたい2mぐらい)とあるそうですが、現在ある石塔は関東大震災で海に落ちてしまったものを拾い上げたため、部分的にどこかが足りないのかもしれません。風土記稿の云う半分ぐらいの大きさしかありません。でもなかなかお目にかかることのない古そうな石塔であるということだけは伝わってきます。

三浦義村の墓

義村の墓の奥には八坂神社があります。鎌倉寺社をめぐるとお寺とその鎮守的な存在として神社がセットで一緒になっていることが多々あります。ですからこの八坂神社は南向院の鎮守だったのかもしれません。

八坂神社の壁面

義村墓・八坂神社のある頂部平場と地上部の間にまた平場があります。住宅が建っているのでいつからある地形なのかは断定できませんが、これが往時からの地形の名残りだとすれば、南向院は鎌倉寺社らしいひな壇状で形成された寺院だったようです。

南向院跡のなんか怪しい箇所



カテゴリー 探索記事(エリア別 三浦
記事作成  2015年8月17日

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