2015年8月15日土曜日

和田の里


今回は三浦市の初声という辺りを訪れた記録です。初声に和田という地名が残されていることからも、この辺りが三浦半島における和田義盛の拠点だったと考えられています。実際にも今回訪れた史跡はほぼ和田義盛、もしくは和田家に関するものばかりでした。鎌倉のような素敵な禅寺はありませんが、信じられないくらいどこまでも続く壮大な畑のほのぼの風景が魅力です。

Google map 三浦市初声

初声という素敵な地名は、平家討伐後に和田義盛が戦勝の舞である「初声」を舞ったとことから由来すると白旗神社の縁起にありました。上宮田にある和田義盛開基の来福寺から和田義盛の館跡と伝わる和田義盛旧里碑のある初声の和田に向います。地図を見てのとおり、幹線道路を通らない面白いコースです。

来福寺


ぜんぜん近くはありませんが来福寺の最寄り駅は京急三浦海岸駅となります。途中から登り坂となったので、来福寺は山の上にあるお寺なのかと思いきや、また下った盆地のような場所に所在していました。全方位を丘陵に囲まれるというなかなか他では見ない地形をしていました。

上宮田

寺縁起に「もとは天台宗で鎌倉名越に創建されましたが、和田に移り、さらに当地に移されました」とあります。新善光寺・最宝寺・不断寺と、三浦半島で見つけた4社めの鎌倉からの引越し組です。『鎌倉廃寺事典』には、名越は名越でも長勝寺の辺りだと記されていましたが、同書では風土記稿からの一文を紹介するにとどまっているので、あまり詳しいことはわかっていないのかもしれません。

来福寺

日枝神社と和田朝盛碑


次に日枝神社と朝盛の碑がある場所を目指します。東京から来た一見さんには通っていいのか悩む農道のような道を行きます。ちょっとした台地になっていて、頂部に出ると景色が開けました。一面畑でしかも遠くに海まで見える絶景です。

見渡す限り畑
遠くに海岸が見える
どこまでも畑

こんな所に史跡があるのだろうかと不安になったのも束の間、わかりやす過ぎる地形が現れました。どう見ても何かの史跡であることは間違いないでしょう。思わず微笑んでしまいました。実際にも日枝神社でした。

わかりやすすぎる日枝神社

近くに朝盛の碑があると史跡みちにありましたが、もしかしてあの畑の向こうに見える石造物でしょうか。近づけないのであきらめました。どうせ石碑自体は中世のものじゃないし・・と自分に言い聞かせて。しかし、帰ってきてこの画像を見て気づいたのですが、畑の中央にタイヤ痕のような造作がみられるのがわかりますか。これって現地ではこんな所を誰かが車で通ったのだろうかと不思議に思いましたが、もしかしたらこれってここを通って朝盛碑まで行っていいよという意味なのかもしれないと思いました。

朝盛碑のある場所

史跡みちによると、和田朝盛の碑は大正10年に三浦基次子爵が建立したもので、碑文には朝盛が高円坊と号しこの地で亡くなったと刻まれているが、そもそも高円坊は江戸時代に付けられた地名で、しかも朝盛は実阿弥陀仏と号しているとありました。さらに朝盛は和田合戦の後、京で捕らえられており、三浦に戻った形跡は確認できません。書かれていること全てが間違いというこの石碑、逆に珍しくて貴重かもしれません。

和田朝盛


朝盛は和田義盛の孫にあたる人物で『吾妻鏡』にも登場します。文面からは将軍実朝のお気に入りであったことがうかがえます。ですからきっと武人ではなく文人タイプだったのでしょう。義盛ら和田一党が北条氏との対決姿勢を示すと彼は出家して旅立ってしまいますが、義盛に呼び戻され合戦に参加することとなります。一族が敗れると、朝盛は京に逃亡し潜伏、その後承久の乱で再び現れ朝廷側に付いています。さすがにこのときは北条方に捕らえられてしまったそうです。そのまま京で処刑されてしまったのかもしれません。

庚申塔


現在は農業に従事する付近住民の方々だけが通るような道ですが、道沿いには庚申塔などの石塔類が多数置かれています。ですからここが鎌倉街道だったとは言いませんが、少なくとも近世では街道だったようです。

庚申塔などの石塔類

白旗神社


どこまでも続いてそうな畑を横切り白旗神社を目指します。白旗神社は辺りでは比較的高い丘陵に所在しているので、こちらも遠目からあの辺りだろうという目測がつきます。こうしてビル一つない旧態地形に囲まれていると、お寺や神社の所在する場所に存在感があることが伝わってきます。昔は遠くからでもすぐにわかったんしょうね。大げさかもしれませんが往時の人たちと同じ感覚を共有できたような気がしました。

正面が白旗神社のある丘陵

鳥居をくぐり階段を登って社殿を目指します。階段の幅が現代の規格とは違うようなどこか違和感を感じます。こちらにも多くの庚申塔などの石塔類が置かれていました。社殿のある丘陵頂部から初声に広がる畑を一望できます。

白旗神社から見た景色

神明造りの社殿に拝殿・幣殿が設けられています。さらに社殿は土塁で囲まれています。狛犬の塔身に浮彫が施されています。

豪華な狛犬

縁起によれば、文治二年(1186)、平家討伐から帰った和田義盛が城内を開放して紅白の幟を建て、城内鎮護の八幡社に戦勝報告したことに始まるとありました。弘長三年(1263)に和田義盛を祀る社殿を設け白旗神社と称します。白旗神社といえば、頼朝法華堂跡にあるように源氏の神様というイメージがありましたが、義盛を際神とするこんなレアケースもあるんですね。

安楽寺跡


白旗神社から天養院を経て国道134号線に出ます。先ほどまでの畑が広がる景色から一変、県道沿いには丘陵頂部まで民家が建てられています。この辺りに和田義盛が開いた安楽寺があったそうです。

天養院

史跡みちに石段や石造物が残されているとありましたが、私が見たもののはほんのわずかなスペースに二体の石像が置かれていただけのものでした。著者の鈴木かほる先生が訪れたときからまた随分と土地開発が進んだんのでしょうか。ちなみに安楽寺にあった義盛の身代わり薬師とも呼ばれる薬師如来は天養院に移されています。

国道沿いにあった石像物

和田館跡


安楽寺跡から県道を下ると、わかりやすいことに和田という名の交差点が現れます。そこを右に曲がるとあるのが和田義盛旧里碑です。とその前に、交差点の角にある民家敷地内にやぐらのような造作がみられます。近寄って見てみたい気持ちでいっぱいです。

やぐら?
和田義盛旧里碑

幻の殿屋敷


和田義盛旧里碑は、大正10年に三浦英太郎男爵が建てたものです。建てた人こそ違えど先ほどの朝盛碑と同じ年に建てられているのでまた怪しい雰囲気が漂いますが、『三浦半島城郭史』によると、「殿屋敷」と呼ばれる場所が近くにあると記されています。和田里への岐れ道とあったので、たぶん和田の交差点のことだと思われます。この辺りに「木戸脇」「出口」「から池」の小字が残されているともあります。それから先きほどの安楽寺は義盛邸の鬼門の鎮護として建てられたものです。さらに当時の鎌倉街道は海岸線寄りに通っていたようで、義盛邸はこの旧道と国道134号線に挟まれた位置にあったと著者の赤星先生は推測しています。国道134号線から和田碑を奥に行くと高台となります。義盛がこの辺りから領内を見渡していたのかもしれないと偲ばせる景色です。偶然にも名主さんの家によく残されている蔵が近くにありました。


和田義盛は三浦郡内で7つの阿弥陀寺を開創したと云われています。宗家の義澄や義村の業績をはるかに上回ります。義盛は京の貴族から三浦の長者と呼ばれていました。庶家の勢いが宗家を上回るというこのおかしなパワーバランスが往年の三浦一族が一つにまとまりきれなかった要因なのかもしれません。



カテゴリー 探索記事(エリア別 三浦
記事作成  2015年8月15日

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