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今回は三浦大介義明の弟にあたる津久井義行の邸跡に訪れた記録です。津久井義行という名をあまり聞きませんが、「石橋山合戦から宗家三浦義澄と共に出陣していたであろう」と『三浦半島の史跡みち』にありました。但し、津久井という地名が京急の駅名にもなっているので、もとから知っていたような気もするのは私だけでしょうか。『三浦半島城郭史』に、「義行は津久井に住し津久井氏を名乗ったと云われる」とあったので、津久井という地名はかなり古くからあるようです。
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Google map 三浦半島 |
法蔵院
わかりやすいことに京急津久井浜駅が最寄り駅です。駅から山側に向かいますが、その前に海側に法蔵院というお寺があったので立ち寄ってみました。
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『三浦半島の史跡みち』によれば、こちらは建久年間(1190~1199)の創建で、僧明円により天台宗として開かれたが、北条経時の鎌倉光明寺の創建に伴って浄土宗に改宗されたとありました。以前に光明寺の創建経緯に疑問を投げかける記事をこちら『光明寺裏山遺跡と謎の万福寺』で記しましたが、この説が有力であれば、ここ法蔵院の縁起もちょっと怪しい雲行きとなります。リンク先を見るのが面倒くさい方のために要約すると、光明寺を調べていくと、光明寺が果たして本当に鎌倉時代からあったお寺なのかという疑惑が浮上してきます。
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法蔵院 |
永禄十年(1567)には、後北条氏と里見氏の争いによって辺り一帯が戦火に包まれ、そのとき当時の伽藍が消失しています。境内から多くの人骨が出土したそうですが、このときのものかどうかはわかっていないようです。境内の敷地は墓地と隣接する幼稚園でほぼ占められています。その幼稚園の送迎用のバスが何台も境内に停められていて、お寺を拝観する様相ではありませんでした。
東光寺
法蔵院から津久井浜駅を越え山側に向かいます。周辺は旧態地形が残されており畑の景色が広がっています。
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東光寺は、寺縁起によれば、天平年間(729~749)に行基が地蔵を安置したのが始まりと伝えられています。津久井義行が上野阿闍梨を迎え寺を中興し祈願所としました。法蔵院同様こちらも本堂前に車などが停まっており、境内を画像で紹介するほどではありません。
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東光寺と津久井義行の碑 |
山門にある仁王像は特別古いものではなさそうですが、どこか惹かれました。『三浦半島の史跡みち』に仁王像の高さが173cmとあったので、ここの仁王像に親近感が持てたのは私と同じ身長だったからかもしれません。境内には一族のものと伝わる五輪塔があるそうです。
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山門の仁王像 |
峯屋敷
「東光寺の西南方を船原と云い、その最高地を峯の屋敷と称する。これを義行の館と伝える。」と『三浦半島城郭史』にあります。東光寺からも近い場所に周辺の畑地より少し高まった丘のような場所がその峯屋敷と伝わる義行の館跡となります。
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峯屋敷 |
『三浦半島城郭史』の著者で大正生まれの赤星先生が「船原全体がすっかり開墾されて畑地となり、峯屋敷の部分は夏蜜柑畑となっている。」と記していることからも、峯屋敷では残念ながら昭和初期でさえ城郭はもちろん館跡らしき痕跡も見つけられなかったようです。
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津久井は、三浦一族の本拠地となる大矢部の後背地として穀倉地帯であったと赤星先生は考えているようです。鎌倉で言うところの上郷のようなポジションでしょうか。
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峯屋敷の一画 キレイなお花畑となっていた |
津久井氏
津久井氏は、義行・高行・義道・高重と四代に渡ってここに居住したと云われています。高重が承久の乱で京側に与したためそこで滅びたそうです。それにしても、和田合戦、そして承久の乱と、三浦一族が北条氏を葬れるかもしれなかった機会が幾度とありましたが、宗家義村はどちらも北条氏に与しています。その後の歴史を知っている私たちからすれば、そのときに違う選択をしていれば・・と思ってしまいますが、一族内における微妙な関係が義村にそのような決断をさせたようです。親族だからといって仲がいいとは限りませんからね。
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野比付近の高台から三浦海岸 |
最宝寺
この日は津久井から衣笠城跡などの史跡がある大矢部に向いました。途中に野比という場所がありますが、こちらには鎌倉から引越してきた最宝寺というお寺があります。ちょっと立ち寄ってみようかというぐらいの気持ちでは困難な場所にあることが近くまできて判明しました・・。
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あの山の上・・(この日は自転車) |
以下鎌倉遺構探索の記事『弁ヶ谷 北条時政邸跡』から引用。
横須賀の野比にある最宝寺は、鎌倉の弁ヶ谷から移転してきたと云われています。『鎌倉廃寺事典』(以下廃寺事典)によれば、「風土記稿に五明山高御蔵と号す。浄土真宗、京西六条本願寺末と云い、源頼朝がはじめ鎌倉扇ヶ谷に創建し、明光を招いて開山とする」などとあります。建久六年(1195)に弁ヶ谷に寺を移し、さらに寺伝によれば、小田原北条氏が真宗を弾圧していた時に逃れて移った先が現在の寺地(横須賀野比)であると伝わっています。応永十一年(1404)の『関東管領上杉朝宗奉書』には「野比村薬師堂免田参段 畠二段事」という記述から最宝寺領が野比にあったことがわかっています。ですから野比の最宝寺が鎌倉の弁ヶ谷にあった最宝寺を継承しているのは確かなようです。
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最宝寺 |
周辺は住宅街となっていますが、往時ではきっと山腹にあったお寺なのだろうということが地形からも伝わってきます。そしてこちらの最宝寺を含め、新善光寺・不断寺・来福寺と、鎌倉から三浦半島に引越してきたお寺が結構あるんですよ。
カテゴリー 探索記事(エリア別 横須賀)
記事作成 2015年9月2日