2015年11月20日金曜日

釜利谷伊丹地区


今回の探索は、釜利谷の中でも鎌倉期に関連する白山寺跡・白山道・白山道間道などを除くちょっとマイナーエリアとなります。私自身初めて足を踏み入れる地域となりますが、白山道から立地的に少し外れた場所なのに、地図上では史跡がいくつか確認できたのが、ここに足を運ぼうと思ったきっかけです。

Google map 釜利谷
①手子神社 ②満蔵院 ③金蔵院 ④能満寺跡 ⑤禅林寺 ⑥自性院 

今回立ち寄った手子神社・満蔵院・金蔵院・禅林寺・自性院は、その縁起を調べると、ほぼ伊丹氏という後北条氏の家臣に関連する史跡だということがわかります。そしてそれら後北条氏時代の史跡にも関わらず、今回ルート上でやぐらをいくつか確認することができたというちょっと面白い展開となりました。

釜利谷の伊丹氏


さて、その伊丹氏とは一体どのような素性の一族だったのでしょう。こちらのサイトによれば、釜利谷に拠を構えた伊丹氏は、摂津国伊丹(兵庫県伊丹市)の出身で、加藤景光の六代目になる頼与の三男経貞が関東に下向したとありました。そして注目すべき点がこちら、「伊丹氏は後北条氏に仕える以前の室町時代から、すでに金沢湊を拠点として房総方面に渡海して水軍として活躍していた」とあります。つまり後北条氏が相模国を支配する以前から、伊丹氏の祖先が既に釜利谷にいたということになります。

伊丹氏の菩提寺禅林寺にあったやぐら

また、こちらのサイトでは、「正和四年(1315)六波羅の命で幕府使者となった伊丹親盛がいる」とあります。さらに時代が遡りますね。ここから想像を膨らませると、六波羅探題として京に赴任していた金沢貞顕と伊丹氏が当時何かしらの接触があり、その縁から伊丹氏が幕府使者となり、さらに金沢にやって来ていたということも考えられるのではないでしょうか。不確かながらも、釜利谷の伊丹氏は、伝えられている以上に古い歴史を持っているのかもしれません。

手子神社


それでは、白山道沿いともなる手子神社からスタートします。広重の金沢八景に小泉の夜雨(こいずみのやう)がありますが、ここ手子神社の辺りを描いたものなんだそうです。相変わらず想像もつきませんが、歌川広重が訪れた近世までは、瀬戸ノ内海が手子神社の辺りまで入り込んでいました。

歌川広重『金沢八景』の小泉の夜雨

宮川沿いにある手子神社は、瀬戸神社のように、社殿を取り囲む部分だけですが、旧態地形が残されています。まさかこんな立派な様相だとは思ってもいなかったのでビックリ。横浜金沢観光協会のHPによれば、文明五年(1473)に、伊丹左京亮が瀬戸神社の分霊を勧請したとあります。当初はこれから向かう宮ヶ谷という場所にありましたが、延宝七年(1679)に、この現在地へと移転してきたそうです。釜利谷郷の総鎮守です。

手子神社

面白い狛犬がいます。格好イイです。個人的には梶原御霊神社の狛犬に次ぐ格好良さだと思いました。こちらの狛犬、参詣者を威嚇しているのかと思ったら、狛犬の視線の先に小さい狛犬がいたので、これは、谷に我が子を投げ落とし、よじ登って来た子だけを育てるという「獅子の子落とし」を表現したものなんでしょうね。

手子神社の狛犬

裏山に続く道筋があったので、ちょっとよじ登っちゃいました。頂部からは埋め立てられた「小泉の夜雨」を眼下に、遠くはシーパラの建物まで確認することができました。

手子神社裏山尾根
小泉の夜雨から見た金沢方面

宮ヶ谷


手子神社から笹下釜利谷道を伝って満蔵院・金蔵院などがある宮ヶ谷へと向かいます。宮ヶ谷とは、手子神社があったことにその名が因みます。ちなみに手子神社が現在鎮座する場所は「宮下」となります。宮さまが鎮座されているのに宮下とは失礼ですが、移転した歴史があるので仕方ないですね。

笹下釜利谷道路宮ヶ谷の交差点 ここを左折

護法山満蔵院


満蔵院に到着。こちらは『かねざわの歴史事典』によれば、なんと、坂上田村麻呂の開基と伝わるちょ~古刹です。だいたい古いお寺や神社は弘法大師とか行基が開いたとか云うもんですが、まさかの征夷大将軍が開基となるそうです。この伝承が本当かどうかといった点は置いといても、8世紀頃からあったお寺なんでしょうね。

満蔵院

境内、というか墓地となっている往時の裏山部分にお邪魔させてもらいました。怪しい壁面がみられます。これはやぐらをコンクリートで固めちゃった跡とかじゃないでしょうか。どうなんでしょう。

怪しい壁面

満蔵院裏山から釜利谷が一望できました。カメラをズームするとシーパラのジェットコースターまで見えました。

満蔵院からの景色

次に金蔵院へと向かうべく移動すると、道沿いにやぐらがありました。まさかこんなところにやぐらがあるとは・・。こちらは満蔵院から連なる丘陵部にあるので、たぶん往時の満蔵院境内にあったやぐらなんじゃないでしょうか。サイズ的には結構大きめなもので、副室まで施されています。鎌倉期、もしくは限りなく鎌倉期に近い室町期のやぐらだと思われます。

満蔵院近くにあったやぐら

北嶺山多門寺金蔵院


満蔵院からも近い金蔵院に到着。こちらは横浜金沢観光協会HPによれば、手子神社と同じく文明五年(1473)頃の創建と考えられており、また伊丹氏の祈願寺であったことがわかっています。

金蔵院

こちらでもずうずうしく往時の裏山部分まで登頂させていただきました。こちらからは野島が見えます。野島山って結構標高があるんですね。

金蔵院裏山からの景色

釜利谷西一丁目


金蔵院から禅林寺を目指しますが、その前に、釜利谷西一丁目の辺りに能満寺というお寺があったということで、一応見に行ってみました。想像のとおり、辺りはすっかり宅地化されているため、寺院跡のような形跡は見当たりませんでした。一箇所、隙間なく宅地化された周辺にあって、公園とその下に空地がみられます。もちろんこれが能満寺跡なんじゃないかという適当なことを言うつもりはありません。それにしても、当時はこの辺り山だったのでしょう。きっつい坂道を登らされたうえ、何の成果もなしという、この結果にしばらくここで休憩としました。

公園から見た空地

公園から禅林寺へ向かうと、なんと、ここでも道沿いにやぐらを発見。がしかし、もう禅林寺がすぐそこなので、もしかしたらこのやぐらは往時の禅林寺境内だったのかもしれません。それにしても、能満寺跡を目指さなければ、この道を通ることもなかったので、あのきつい坂道を来たのは無駄ではありませんでした。

禅林寺付近やぐら

やぐらはもともと古墳時代横穴墓の高棺座タイプのように見えます。画像を見ての通り、石造物などを置くための造作を後世にて施したのではないでしょうか。

竹嵓山禅林寺


そして禅林寺に到着。結構素敵な境内です。ちょっと失礼ですが、釜利谷でこういうお寺に出会えるとは思いませんでした。素晴らしい。曹洞宗とあったので、玉縄の龍宝寺と同じ宗派です。

禅林寺

禅林寺は、横浜金沢観光協会HPによれば、明応二年(1493年)の創建で、足利持氏が開基とありました。釜利谷のこんな奥地に公方様のお寺があります。そしてその後、伊丹三河守永親が禅林寺を再興したと伝えられているそうです。

境内裏山より

こちらでは序盤で紹介したやぐらの他にもいくつかやぐららしき横穴が確認できます。また、このお寺が中世からの歴史を伝えるかのごとく、無縁仏となった五輪塔などの石塔が多数置かれていました。ちなみに、伊丹氏の屋敷は、ここからも近い釜利谷小学校付近にあったと云われています。今回のコースはある意味伊丹氏の拠点廻りでもあったようです。

釜利谷の小川アメニティ

この辺りは小川アメニティとして整備されていて、とてもキレイでした。当初は白山道のついでにといった感じで訪れたエリアでしたが、やぐらを見れるし、結構なボリュームの史跡だったし、意外に面白い場所でした。禅林寺は素敵だったので機会があれば緑のきれいな春頃にまた訪れてみたいと思いました。



カテゴリー 探索記事(エリア別 六浦・金沢
記事作成  2015年11月20日

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