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山号寺号 金剛山正禅寺
建立 大永年間(1521~1527)
開山 暘谷乾憧
開基 達道建栄
浦郷(追浜)にある正禅寺は、大永年間(1521~1527)の創建のはずが、何故か鎌倉期のやぐらが存在し、裏山の権現山には砦跡が確認されています。そしてそれら痕跡がいつのものなのか、そして誰によってつくられたのか、何もかわかっていないという、とても興味深い史跡です。京急追浜駅から夏島方面に向かい、日産や住友重機などがある広大な工場地帯の手前に正禅寺は所在します。
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Google map 浦郷 ①和田山 ②雷神社 ③法福寺 ④良心寺 ⑤正禅寺 ⑥観音寺 ⑦正観寺 |
正禅寺は、大永年間(1521~1527)に、建長寺169世の暘谷乾憧(ようこくけんとう)を開山に迎え創建されました。一方で、開基の達道建栄が正禅寺一世とも伝わっているため、情報が定かではありません。臨済宗建長寺派で、同じく浦郷(追浜)にある自得寺の末寺です。
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正禅寺 |
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正禅寺周辺の歴史
正禅寺のある丘陵を権現山と云います。以前、山頂に権現社があったことにその名が因みます。また、権現山の北側に野球グランド(横須賀スタジアム)がありますが、その辺りまで丘陵がもともとはあったと『追浜の史跡探訪』に記されていました。戦時中に旧日本軍の高射機関銃陣地が造られたため、権現山は大きくその姿を変えてしまいましたが、砦、もしくは砦状の造作が確認されています。
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Google map |
正禅寺の東側には、二階(二重)やぐらという源範頼が謀反の疑いをかけられた際に隠れたという伝承を持つ岩窟と神明社がありました。二階やぐらは、やぐらといっても、どうやら古墳時代横穴墓のようで、18基からなる一大横穴墓群でしたが、正禅寺に隣接する岡村製作所が工場建設のためにこれら全てを破壊してしまったため、現存していません。
往時の浦郷
理解が深まると思うので、浦郷(追浜)の昔の地形・海岸線を確認してみましょう。こちらも金沢同様、埋め立てなどの土地造成によって大きくその姿を変えています。地図画像は、歴史的農業環境閲覧システムで公開されているものをGoogle Earthで表したものです。明治初期の地形です。
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Google Earth |
金沢八景でもおなじみの夏島や烏帽子島がこのときは未だ存在しています。また正禅寺の北側がすぐ海になっているのが確認できると思います。現在の地形とはだいぶ異なります。そして正禅寺の南に正観寺がありますが、その正観寺の目の前にある湾口部を榎戸湊と云います。道興が記した廻国雑記に、鎌倉の外港として、金沢・浦賀と並び、この榎戸湊が挙げられています。
正禅寺やぐら群
上記したように、大永年間(1521~1527)に創建された正禅寺に、やぐら群が存在します。本堂裏と本堂の南東部分に一群がみられます。南東側のものは、掘りが浅く、時代的にかなり下った造作にみえますが、本堂裏にあるものは、鎌倉寺社でみられるやぐらそのものといった雰囲気です。和田山遺跡にもあった、砦や山城でみられる集合墳墓が確認できると『追浜の史跡探訪』にありましたが、私は見つけられませんでした。一基だけ一般には見せないものがあったので、そのやぐらのことかもしれません。
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本堂裏のやぐら |
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一般的にやぐらは13世紀後半から15世紀頃まで営まれたと考えられています。がしかし、こうして鎌倉周辺をめぐっていると、後北条氏の家臣である甘粕氏の多聞院や伊丹氏の禅林寺などでもやぐらを確認することができます。ですからやぐらは何だかんだと16世紀頃まで造営されていたのではないかとも考えられますが、正禅寺のやぐらは鎌倉時代のものだと資料にありました。私の見た資料が何をもって鎌倉期のものだと判断しているのかがわかりませんでしたが、もしそうだとすれば、失われたその時代の伝承にどんな歴史があったのか、探究心を誘われます。
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掘割状地形
正禅寺の境内北側と南側に、裏山の権現山へと向かっていたのであろう旧道跡がみられます。特に南側は明確な掘割状となっていました。いつの時代からあった坂道なのでしょう。
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南側の掘割状地形 |
権現山
権現社があったという正禅寺の裏山権現山に登ってみました。裏山といっても頂部には住宅が建ち並んでいます。砦があったという痕跡を見つけることはできませんが、とてつもなく開けた景色を望めます。
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権現山頂部尾根 |
直下に追浜の街並み、そして東北方面に金沢湊が拡がり、北西方面には釜利谷を囲む丘陵、さらに西側では富士山を望めるというちょっとした絶景ポイントです。しかも尾根道を伝っていくと、今度は南側にある榎戸湊まで眺めることまでできました。そのまま下りれば独園寺に行くこともできます。
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権現山尾根から見た金沢湊方面 |
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権現山尾根にあったまさかの富士山眺望ポイント |
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権現山尾根から見た榎戸湊 |
こうして景色を眺めていると、権現山に砦があったという説も頷けるような気がしました。ここから金沢湊に榎戸湊まで視界に入れることが可能なうえ、尾根頂部を伝って広範囲を移動することができます。ここに砦を築いた人物といえば、やはり朝倉能登守あたりだと考えるのが妥当でしょうか。
往時を偲ぶ風景
上の敏速図を見てもわかるように、往時の正禅寺は、海が見渡せる場所にありました。中世において砦として活用されただけでなく、単に美しい風景が拡がっていたことでしょう。権現山からの景色はもちろんですが、境内からも海に浮かぶ夏島を眺めることができたはずです。建長寺長老の暘谷乾憧にとって、隠居生活にもってこいの絶景が拡がっていたのでしょう。
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境内から見た夏島 往時は目の前に海が広がっていた |
蒲谷家
蒲冠者こと源範頼が正禅寺付近にあった横穴に隠れたのは、この地にいた漁夫の平兵衛が、範頼を追手から匿ったことによります。その平兵衛が範頼から蒲谷という苗字をもらったことから、現在もこの辺りに蒲谷という苗字が多いと『三浦半島の史跡みち』にありました。確かに、正禅寺のお墓には、その蒲谷家と刻まれた墓が数多くありました。
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蒲谷家の墓石があるやぐら |
カテゴリー 探索記事(エリア別 浦郷(追浜))
記事作成 2015年12月21日