2016年2月1日月曜日

エメェ・アンベールが見た鎌倉


『絵で見る幕末日本』


『絵で見る幕末日本』は、文久三年(1863)の幕末日本に訪れたスイス人のエメェ・アンベール(Aimé Humbert)が日本滞在記を紀行文風にまとめ、且つ日本の風景を写実的に描いた絵と組み合わせて西欧に紹介した著書です。

鶴岡八幡宮 『絵で見る幕末日本』より

スイス時計の売り込み交渉のために日本への来日機会をうかがっていたアンベールでしたが、当時は日本とスイスの間に修好条約がなかったため、アンベールは日本と友好関係にあったオランダ国籍を取得し、その代表使節の資格をとって日本に来日しました。文久二年(1862)11月、マルセイユから出発したアンベールは、カイロ・ボンベイ・セイロン・バタビア・サイゴン・香港・広東・マカオ・上海と立ち寄り、翌年の4月に長崎に到着しました。幕府との交渉が思うように進まなかったため、アンベールの日本滞在は大よそ一年という長期間に及びます。滞在記はその間に見聞した記録をまとめたものとなります。

アンベールの鎌倉紀行


本書の大半は江戸での見聞録となりますが、ほんのわずかながらアンベールが鎌倉に訪れている部分が記されています。当初は江ノ島遊覧が目的でしたが、緒事情で鎌倉に変更となりました。横浜から船で金沢に到着し、一泊した後、鎌倉で鶴岡八幡宮や大仏などを見学しています。外国人ならではの彼の視点と表現力豊かな文章力に、私はとても引き込まれてしまいました。ということで今回は、このアンベールの鎌倉での滞在記の一部を紹介したいと思います。

Google map 鎌倉
①金沢 ②朝比奈切通 ③鶴岡八幡宮 ④長谷寺 ⑤大仏 

金沢で金沢八景


アンベール一行は、横浜の外国人居留地から船で金沢に到着しました。数人の仲間、そして雇った支那人のコックが同行しています。
『絵で見る幕末日本』より「月夜の幻想的な光の中に、われわれの前方、右側に、美しい樹々に包まれた絵のような高地があり、正面にはベブスター島の緑の頂上が聳えていた。」

Google map 金沢
夏島と野島の間に烏帽子島があった

本文中にあるベブスター島とは、横浜開港資料館のHPに、「ペリーが夏島をウェブスター島と名付けた」とあったので、ベブスター島とはウェブスター島、つまり夏島のことだと思われます。そしてもう一つ、横浜から船でやってきたアンベールの正面にベブスター島(夏島)、そして右側に「美しい樹々に包まれた絵のような高地」とあります。これは何処を指しているのでしょう。夏島を正面に右手といえば、野島山が真先に思い浮かびますが、この時代は未だ現在のように埋め立てられていないので、夏島と野島の間に烏帽子島が存在していました。野島山か烏帽子島か、さてどちらのことを言っているのでしょう。

金沢が埋め立て造成される前の九覧亭

『絵で見る幕末日本』より「われわれが向っている埠頭と堤防を結んでいる橋が見え、一方、部落の先端に塩水湖を抱えた深い入り江が見える。港への入口で、果樹に囲まれた小さな神社が見えた。その向こうの岩壁の上に、見晴台のある茶屋があるが、ここから入り江の全景を手に取るように見下ろすことができるばかりではなく、ベブスター島及び潮島の彼方、遠く江戸湾を展望することができる。」

当時の瀬戸橋・琵琶神社・瀬戸神社が写っている 日下部金兵衛コレクションより

埠頭と堤防を結んでいる橋」とは瀬戸橋、「塩水湖を抱えた深い入り江」とは塩田、「果樹に囲まれた小さな神社」とは琵琶神社、「見晴台のある茶屋」とは九覧亭のことでしょう。現在の金沢とはずいぶんとかけ離れた世界が広がっていたことが伝わってきます。さぞかし美しい風景だったのでしょう。

朝比奈切通に本当にあったお茶屋さん


金沢で一泊後、アンベール一行は鎌倉に向かいます。朝比奈切通とは記されていませんが、前後の記述から察するに、朝比奈切通を通り鎌倉に入った模様です。
『絵で見る幕末日本』より「岩壁にはところどころ洞窟があり、その中に、小さな石像や祭壇やお供え物が見えた。岩壁に続く頂上に小さな小屋があって、腰掛けを数個並べてあり、かまどが見え、お茶と食事の用意がしてあった。早朝のこととて、誰も見えず、その内部が丸見えであった。」

朝比奈切通
画像中央やや左上にやぐらがある アンベールが訪れた頃は未だあの辺りが底辺か?

切通し途中にあるやぐらの記述、そしてなんと、朝比奈切通にお茶屋さんがあったとは聞いていましたが、本当にお茶屋さんがあったと記されています。ちょっと感動しました。お茶ぐらい飲んでいけばよかったのにアンベールさん。

鶴岡八幡宮で見たモノ


鶴岡八幡宮に到着したアンベール一行。
『絵で見る幕末日本』より「右手の橋は、荒削りをした白っぽい花崗岩でできており、ほとんど半円を描いて彎曲していて、いったい、どんな体操をするために造られたのだろうか?と、質問したくなるほどであった。」「橋に向き合って立っている神社の建物は、その高い屋根の下に、二つの恐ろしい面相をした偶像を置いてあって、その両側は自由に通れるようになっている。」

鶴岡八幡宮と太鼓橋

八幡宮入口にある太鼓橋の形状に「どんな体操をするために造られたのだろうか?」という感想は、外国人ならではの面白い発想ですね。それから、「二つの恐ろしい面相をした偶像」という、仁王門としか思えない記述があります。八幡宮に仁王門があったのでしょうか。『鎌倉の古絵図』にある当時の八幡宮境内絵図を見たところ、確かに、仁王門が描かれています。その他宝塔など、現在にはない建物がいくつかみられます。アンベールは特にそれら建築物に惹かれたようで、「あらゆる真の芸術作品が与える、壮重な調和のとれた印象を否定することはできない」と評価しています。

当時の鶴岡八幡宮 『鎌倉の古絵図』より ○が仁王門

『絵で見る幕末日本』より「柵で囲った大きな石があったが、彼(案内人)は、この石にある婦人の性器に似た形をしている亀裂を指差して、この亀裂が自然に出来たものであることを主張した。」

政子石 どういう形状なのかはご自身で確かめてください

婦人の性器に似た形をしている亀裂」のある石とは、これはもしかして、現在政子石とか姫石と呼ばれているものでしょうか。そんなのまでアンベールに見せるなよ案内人・・と思う一方で、こうした特別な形状をした石は、当時は庶民の礼拝を勝ち取るアイテムの一つとして重宝されていたようです。ご存じない方は、源氏池にある旗上弁財天社の裏側を覗いてみてください。

長谷寺の売春宿疑惑?


アンベールが次に向かったのはどうやら長谷寺のようです。何故か寺院名が記されていませんでしたが、「全鎌倉湾を展望することのできる頂上」「高さ10メートルから20メートルもある金粉を塗った巨大な木造」という記述からも、長谷寺で間違いないと思いますが、詳しい方いかがでしょう。

長谷寺からの景観 「全鎌倉湾を展望することのできる頂上」

ここではちょっと不思議な記述がみられます。
『絵で見る幕末日本』より「われわれが祭壇の広間から出ると、彼ら(長谷寺の僧侶)のひとりが、傍らの移動する扉を押し開けた。すると、中から厚化粧をした若い娘が出て来て、強制された微笑で、われわれにお辞儀をし、膝をついたかと思うと、われわれの足許に、身体を崩した。下劣な僧侶は、取り入るような様子をして、警備隊長のそばに近づき、催促するように彼の肩をたたいた。すると、警備隊長の方は、われわれの仲間で決めた合図に従い、ステッキを右の目の高さのところに上げ、左の目を意味深長にしばたいて、自分に向き合っている者及びその同類に、ただちにこの場を退散するよう強要した。」

桜の季節の長谷寺

私はこの一連の流れから、僧侶がこの「強制された微笑を浮かべた女性」を買春するようアンベールらに勧めているように受け取れました。この一文だけでは売春があったとは確定できませんが、この時代、食べていくだけでも精一杯な人も多かったことでしょう。お寺だろうと売春ぐらいはあってもおかしくはないかもしれないと私は考えましたが、皆さんはどうとらえたでしょうか。

鎌倉に来たらやっぱり大仏


アンベールが最後に訪れたのが大仏です。それにしてもアンベールさん、八幡宮→長谷寺→大仏と、現在の一見さん観光客が辿るコテコテの観光ルートと変わりません。昔から鎌倉観光といえばこんな感じだったのでしょうか。そしてその大仏にはかなりの好評価を与えています。
『絵で見る幕末日本』より「この巨大な像を見て起こる無意識の動揺は、まもなく感嘆に代わってくる。この大仏の姿勢にはなんともいえぬ魅力があり、その体の調和と均斉さ、その衣の上品な素材さ、その外貌の静けさ、明確さ、正しさも、また無限の魅力がある。」

「なんともいえぬ魅力」がある大仏の姿勢

大仏の姿勢にはなんともいえぬ魅力」があるとアンベールが言っていますが、私もあの姿勢に惹かれます。また、「鎌倉の大仏は、支那で礼拝されている仏陀と名付ける醜怪な偶像に比べて、比較にならぬほど優れている。この事実は、重要なように思われる。何故ならば、仏教が支那から日本に伝わっているからである。」ともありました。大仏だけでなく、アンベールは比較的日本贔屓のようで、「支那は滅びゆく国、日本は興隆していく国」とも記しています。

エメェ・アンベール


幕末の頃の鎌倉がどうなっていたのかがわかるとても興味深い記録だと私は思いましたが、皆さんいかがだったでしょうか。アンベールが日本に向けてマルセイユで乗船したのが文久二年(1862)11月、日本に到着したのが文久三年(1863)4月、そしてその翌年にようやく日本スイス通商協定を江戸幕府との間に結ぶことができました。日本滞在時における彼の年齢は44~45歳。そして時は流れ昭和39年(1964)、在日スイス大使館で日本・スイス修好百年記念祭が行われた際、アンベールは最大の功労者として讃えられました。

第一回スイス国日本特派使節団団員 中央○が団長のアンベール

カテゴリー 鎌倉研究部
記事作成  2016年2月1日

エメェ・アンベールが見た鎌倉 関連記事


鎌倉大仏殿

鎌倉を象徴する史跡大仏とその謎に迫る

長谷寺

736年に建立された古刹には十一面観音像や弁天窟など見所がたくさん!

朝比奈切通

旧態で残された鎌倉と六浦を往来する六浦道の峠坂

六浦・金沢

六浦・金沢エリアをマクロ視点で解説

金沢八景ポイント

歌川広重が描いた金沢八景ポイントを検証!

金龍禅院

近世では多くの観光客が訪れた名勝の地

瀬戸神社

頼朝が三嶋大社から勧請した金沢・六浦の海の守り神

野島

金沢八景の一つである野島では縄文時代の貝塚が発見されています。

六浦・金沢の記事一覧

鎌倉の外港を擁する往時では鎌倉の東境の地

鎌倉遺構探索リンク