2016年2月17日水曜日

鎌倉の地名(小字編)


字名とは


字名の定義をパスコ社のHPから引用します。「字名とは、市区町村名の後につく地域名称で、番地の前の部分を指します。」また「字名は〔町・大字〕と〔丁目・字〕の2つの階層に分けられます。」とあります。鎌倉の住所で例えると、扇ガ谷一丁目の「扇ガ谷」の部分が「町・大字」、そして「一丁目」の部分が「丁目・字」となります。また大字(町名)に対して小字(丁目)とも云います。ということで、「鎌倉の地名(町名編)」では、大字(町名)を扱ったので、今回は、鎌倉の字(小字・丁目)名をメインに紹介したいと思います。


人名に因む地名


下画像は人名に因む地名を取り上げたものです。鎌倉時代の主役ともいえる源氏や北条氏に因むものはなく、どちらかというと脇役に近い一族の名が残されているところが面白いですね。

Google map 鎌倉
①山ノ内 ②尾藤ヶ谷 ③藤ヶ谷 ④葛西ヶ谷 ⑤比企ヶ谷 ⑥宅間ヶ谷 ⑦梶原ヶ谷

山ノ内


①「山ノ内」は、山ノ内俊通が山ノ内荘として開発したから付いた名だと云われています。鎌倉時代では、北鎌倉から横浜市栄区や戸塚区におよぶ広大な地域を山ノ内と云っていました。吾妻鏡ので記述はもちろん、後深草院二条の『とはずがたり』にも「山ノ内」という記述がみられます。『吾妻鏡』治承四年(1180)7月10日条に登場する山ノ内経俊は、山ノ内俊通の子です。

尾藤ヶ谷


②「尾藤ヶ谷」は、北条氏御内人として知られる尾藤氏の邸があったことにその名が因みます。谷戸内に横須賀線が敷かれたため、地形形状の跡形もありませんが、現在も丘陵部寄りにやぐらが残されています。尾藤次郎景綱が執権泰時との蜜月を築き、得宗家家令としての地位を確立しました。北鎌倉駅から東慶寺・浄智寺と県道を進むと、踏み切りにぶつかります。右手の谷が尾藤ヶ谷です。

開発を免れた尾藤ヶ谷の丘陵部
(関連記事「尾藤ヶ谷」)

藤ヶ谷


③「藤ヶ谷」は、『十六夜日記』の著者阿仏尼を母に持つことでも知られる歌人で藤原氏の流れを汲む冷泉為相が浄光明寺の近くに住んでいたことから、その地を藤ヶ谷と呼ぶようになったと考えられています。

浄光明寺にある冷泉為相の墓
(関連記事「浄光明寺」「泉ヶ谷 ~浄光明寺敷地絵図」)

葛西ヶ谷


④「葛西ヶ谷」は、頼朝からの信頼も厚い葛西清重が邸を構えていました。その後、得宗家が葛西ヶ谷に東勝寺を建てたこと、吾妻鏡に葛西氏の邸が前浜にあると記されていることから、葛西氏が葛西ヶ谷の地を退いた、もしくは葛西氏の邸が前浜にもあったと考えられます。得宗家の敷地に葛西氏の邸があるものおかしいので、単純に葛西氏が前浜に邸を移したと考えるのが妥当かもしれません。

葛西ヶ谷東勝寺跡
(関連記事「東勝寺跡 ~東国の王の寺①」「東勝寺跡 ~東国の王の寺②」「東勝寺跡 ~東国の王の寺③」「東勝寺跡 ~東国の王の寺④」)

比企ヶ谷


⑤「比企ヶ谷」は、妙本寺のある谷戸です。比企尼などの比企一族が居を構えていたと考えられています。『吾妻鏡』承元三年(1209)5月15日条には、将軍実朝が比企谷に住む女官の家に立ち寄っている様子が記されています。

妙本寺比企一族の墓
(関連記事「比企ヶ谷 妙本寺」「妙本寺 地形編」)

宅間ヶ谷


⑥「宅間ヶ谷」は、報国寺のある谷戸です。元暦元年(1184)、源頼朝の命で京都から下向した絵師の宅間為久が居住していたことに地名が由来すると云われています。宅間為久は、源氏一族の菩提寺となる勝長寿院の壁画製作に携わっていたりするので、当時はかなりの腕前の絵師だったのでしょう。(関連記事「報国寺」「報国寺 宅間谷」)

梶原ヶ谷


⑦「梶原ヶ谷」は、梶原景時の邸があったと云われていますが、こちらは上記した他のものとは違い伝承レベルのお話です。明王院を正面に左手にある弓状の細長い谷戸を指します。その形状から、馬上の敵が侵入してきても敵は矢を射ることができないと奥富先生の著書にありました。とても面白い考察だと思いました。抜穴と云われるやぐらが半壊したような造作や井戸跡が現在も残されています。

Google map 梶原ヶ谷
馬上の侵入者は常に左手が丘陵となるため矢を射ることができない


お寺に因む地名


次は、お寺に因む地名を取り上げてみました。現在もお寺が多いことで知られる鎌倉ですが、往時では谷戸ごとにお寺があったと云われる程なので、寺号がそのまま字名になった地域も多いことでしょう。全てを網羅するのは厳しいので、主なものを下画像にて表しました。

Google map 鎌倉
①聖福寺ヶ谷 ②極楽寺 ③亀ヶ谷 ④薬師堂ヶ谷 ⑤二階堂 ⑥浄明寺 ⑦釈迦堂 ⑧大御堂 

聖福寺ヶ谷


①「聖福寺ヶ谷」には、聖福寺というお寺がありました。『かまくら子ども風土記』によれば、聖福寺は、建長六年(1254)に執権時頼が子どもの正寿丸(時宗)と福寿丸(宗政)が無事に育つことを祈って建てたお寺だとあります。正寿丸の「正(聖)」と福寿丸の「福」で聖福寺です。周辺は律宗極楽寺僧侶の修行の場であり、また新田義貞が鎌倉攻めの際に陣を置いたことでも知られています。

聖福寺ヶ谷
(関連記事「極楽寺熊野三社」)

極楽寺


②「極楽寺」はお寺の極楽寺に因む名です。吾妻鏡には、弘長元年(1261)4月に「極楽寺」が登場します。北条重時が将軍家を極楽寺山荘に招き、笠懸などを行っている様子が記されています。(関連記事「極楽寺坂」)

亀ヶ谷


③「亀ヶ谷」(扇ガ谷)にある小谷戸には、お寺に因む名が多くみられます。それぞれ寺号が谷戸名になっています。こうして地図を見ているだけで、谷戸ごとにお寺があったと云う当時の鎌倉の風景を偲ばせてくれる気がしますよね。ちなみに海蔵寺のある会下ヶ谷(えげがやつ)とは、僧侶が集う場所という意味です。後述する薬師堂ヶ谷にも会下という小字が伝えられています。

Google map 亀ヶ谷(扇ガ谷)
(関連記事「寿福寺」「寿福寺旧境内」「浄光明寺」「泉ヶ谷 ~浄光明寺敷地絵図」「東林寺跡」「新清涼寺跡」「海蔵寺」「海蔵寺旧境内と源翁禅師」)

薬師堂ヶ谷


④「薬師堂ヶ谷」は、建保六年(1218)に北条義時が建てた大倉薬師堂に因むものと思われます。『吾妻鏡』建保六年(1218)7月9日条では、義時が薬師堂を建立することに対して、北条時房と泰時が反対している様子が記されています。しかしそこから早いもので、同年12月には薬師堂の開眼供養が行われています。(関連記事「大楽寺跡」)

二階堂


⑤「二階堂」は、永福寺の本堂を二階堂と云っていたので、この地を二階堂と呼ぶようになりました。『吾妻鏡』建久三年(1192)8月24日条「二階堂永福寺の地に池を掘った」建久三年(1192)8月27日条「頼朝が二階堂の地に訪れた」などの記述がみられます。(関連記事「永福寺跡」)

浄明寺


⑥「浄明寺」の名の由来は鎌倉五山五位の浄妙寺に因みます。住所の「浄明寺」がお寺の「浄妙寺」と、一字違いなのは、お寺の浄妙寺に遠慮したためだとか、明治の廃仏毀釈によって寺の名を避けたなどという説があります。

浄妙寺
(関連記事「浄妙寺」「浄妙寺旧境内」)

釈迦堂


⑦「釈迦堂」は、執権泰時が父義時の供養のために建てた釈迦堂があったことにその名が因みます。『吾妻鏡』貞應三年(1224)11月18日条に、泰時が義時の供養のために伽藍を建立することとしたという記事がみられます。現在は住宅街となっており、お寺も何も残されていません。

大御堂


⑧「大御堂」は、勝長寿院のお堂がそう呼ばれていたことにその名が因みます。こちらも釈迦堂同様に、ただの住宅街となっていますが、幾分怪しいそれらしい地形が残されています。しかしながら、やはり住宅街であるため、観光客がずかずかと立ち入るのはちょっと憚れます。

大御堂ヶ谷
(関連記事「勝長寿院跡 大御堂ヶ谷」)


番外編


以下はちょっと勉強になるというか、鎌倉の歴史を勉強するうえでさらに掘り下げた知識を得ることができる地名を下地図画像にて表してみました。

Google map 鎌倉
①鑪ヶ谷 ②馬場 ③西ヶ谷・西浜 ④下馬 ⑤月影ヶ谷 ⑥金洗沢

鑪ヶ谷


①十二所の朝比奈切通付近に「鑪(たたら)ヶ谷」と呼ばれる場所があります。「たたら」とは日本古来の製鉄方法です。この辺りにある「太刀洗」という地名からも、鑪ヶ谷で製鉄が行われていたと考えられています。一説では、願行憲静が大楽寺(廃寺)の本尊鉄不動を鋳たのがここ鑪ヶ谷と云われています。

朝比奈切通入口
(関連記事「朝比奈切通」「十二所七曲」「大楽寺跡」)

馬場


②極楽寺と十二所御坊ヶ谷に「馬場」という字名が伝えられています。名の由来はそのまま馬場として活用されていたことに因みます。どちらも一直線にどこまでも続く笠懸などに適した地形形状となっています。(関連記事「極楽寺馬場ヶ谷」「月輪寺跡」)

西浜・西ヶ谷


③鎌倉市内で「西」の付く地名が複数確認できます。これは何かの西側であることを表しています。「西浜」の語源は、和賀江嶋の西にある浜だから西浜、そして二階堂にある西ヶ谷は永福寺の西側だから、極楽寺にある西ヶ谷は極楽寺の西側だからということでしょう。そうすると名越の西ヶ谷は一体何の西側に当たるのかというと、実はこの名越西ヶ谷の隣の谷戸を山王谷と云い、山王堂というお寺が鎌倉時代にあったことがわかっています。ですからこの山王堂の西ということで付けられた地名かと思われます。

極楽寺西ヶ谷のほのぼの風景

また、西があるのなら、東ヶ谷とか南ヶ谷があってもいいような気もしますよね。どうして西ヶ谷しかないのでしょう。ここからは私の想像ですが、仏教に西方極楽浄土という言葉があるように、今よりずっと信心深かった昔の人たちにとって、地名に「西」という言葉を用いることは、縁起がいいとか、極楽浄土に近づけるとか、そんな考えがあったのではないかと思います。(関連記事「和賀江嶋」)

下馬


④「下馬」とはお宮さま(八幡宮)を敬い馬から下りて通る場所です。若宮大路と大町大路が交差するこの下馬と呼ばれる交差点は「下の下馬」で、他に「上の下馬」「中の下馬」がありました。

下馬

月影ヶ谷


⑤極楽寺の支谷となる「月影ヶ谷」は、『十六夜日記』の著者阿仏尼が住んでいたことにその名が因みます。阿仏尼は冷泉為相の母にあたり、所領相続の裁判のため、建治三年(1277)に鎌倉に入りました。彼女は大よそ4年の間ここ月影ヶ谷に住んでいたと云われています。何故「月影」なのかというと、彼女の記した『十六夜日記』に「住むところは月影の谷」とあるからだと思われます。

金洗沢


⑥「金洗沢」は、現在の七里ヶ浜を指す名称です。『吾妻鏡』正治二年(1200)1月18日条に「金洗沢」が登場します。その名からは金でも取れたかのような雰囲気ですが、これは製鉄に関連した地名で、鎌倉だけでなく全国的な事例からも、「金洗沢」とは、砂鉄選別の最終工程の場に付けられる名称として周知されています。七里ヶ浜付近の砂浜が黒っぽいのは、砂鉄によるものだと思われます。

稲村ヶ崎から見た七里ヶ浜(金洗沢)の辺り




参考資料
『現代語訳吾妻鏡』(吉川弘文館)『かまくら子ども風土記』『鎌倉廃寺事典』その他、鎌倉市教育委員会の調査報告書など。

カテゴリー 鎌倉遺構探索事典
記事作成  2016年2月17日

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