2016年8月11日木曜日

頼朝の三崎山荘


三崎三御所


源頼朝が三崎に訪れている様子が『吾妻鏡』に記されています。建久五年(1195)8月1日同年9月6日翌年の1月25日8月26日の合計4回に渡って三崎の記事が確認できます。その頼朝が三崎滞在の際、現在の大椿寺本瑞寺見桃寺の辺りに別荘を設けたと云われています。これを”三崎の三御所”と云います。

Google map 三崎
①大椿寺 ②本瑞寺 ③見桃寺 ④歌舞島 ⑤安房崎

三崎の三御所”という、このいかにも”後世の後付け感”漂うネーミング。鎌倉でいうところの”誰々の墓”といった類と同じく客寄せの一種だと考える方も多いかもしれません。質素堅実主義の頼朝が三崎に三ヵ所も別荘を持つのだろうかと、本気でツッコミを入れるのは無粋でしょうか。まぁ何はともあれ、頼朝が三崎に訪れたことは確かなので、今回は頼朝の三崎における足跡らしき伝承を史跡と共に追ってみることにしました。

頼朝の三崎山荘


『吾妻鏡』建久五年(1194)8月1日条の記述を簡潔にまとめると、三崎港付近に山荘が建てられることになり、そこからの眺望は素晴らしく、白波が見えるとのことです。海に囲まれた三崎ですから、どのポイントからもこの条件が当てはまる気もしますが、一応参考にまで留めておきましょう。

三崎港の穏やかな海

椿御所 大椿寺と妙悟尼


まずは”三崎三御所の”一つ、”椿御所”と呼ばれる大椿寺(だいちんじ)。頼朝が山荘を建て、椿を植えたことから椿の御所と呼ばれるようになったと云われています。『三浦半島の史跡みち』によれば、寛喜二年(1230)、建長寺の旭永が開山と伝わっています。境内はトロピカルな木と松の木という、いかにも三浦半島のお寺らしい組み合わせの景観です。『三浦半島の史跡みち』に”蘇鉄”とあったので、南国風なあのトロピカルな木を蘇鉄と云うようです。

大椿寺

興味深い点は、妙悟尼という頼朝の妾がこの地に住んでいたと伝わっていることです。「ちょっと由比ヶ浜まで禊(みそぎ)に行ってくる」と言って亀ノ前に会いに行っていた頼朝を思い出しますが、頼朝の三崎遊覧とはそういうことだったのでしょうか。また境内の特筆すべき点をしいて挙げるとするならば、奥に”やぐら”風の壁面があること、それから裏山には6世紀の古墳があったことでしょうか。古墳からは埴輪が出土しているそうです。城ヶ島大橋の入口が大椿寺の裏山であることからも、その古墳がどうなっているのかはお察しのとおりです。

大椿寺のやぐら風壁面
城ヶ島大橋から見た大椿寺

城ヶ島大橋からの景色が大椿寺裏山からの景色だとすれば、『吾妻鏡』にある「眺望が良く白波がみえる」とはこのことでしょうか。「白波」とは何のことなのかよくわかりませんでしたが、岩礁に波が打ち付けられその辺り一帯の海が白く見えることを表すことなのだろうと現地に来てようやくわかりました。そしてこちらも現地に来てわかったことなのですが、三崎は天然の防波堤である城ヶ島があるため、三崎港の海は本当に穏やかです。一方で遠くに波が激しく岩礁に打ち付けられている城ヶ島の安房崎の先端が見えます。

城ヶ島大橋から見える安房崎の白波
城ヶ島大橋から見えるひょっこり島

桜御所 本瑞寺


頼朝が千本の桜を植えさせたと云うことから、本瑞寺は三御所の”桜御所”の跡地として知られています。本瑞寺は三浦義意が円覚寺の末寺として開創したと伝わっています。本瑞寺が位置する場所は三崎城の一画であったため、見晴らしがよく『吾妻鏡』にある「眺望の良さ」が当てはまるのかもしれません。それから、和田義盛が開いたと伝わる光念寺が隣接するという確実に中世の匂いがする土地柄であることも付け加えておきます。

桜御所付近からの景色 ちょっとズーム
和田義盛が開いた光念寺

ちなみに、本瑞寺は光念寺の東隣に位置しますが、元々は光念寺の西隣にありました。ですから厳密には現在の本瑞寺は頼朝の桜御所跡とは何の関係もありません。但し、本瑞寺にしろ隣接する光念寺にしろ、境内南側から見える景色に大差はありません。頼朝の桜御所跡には若干の空き地が残されています。ちなみに本気のツッコミをして本当に申し訳ないのですが、上記した頼朝の日程を確認すれば一目瞭然、頼朝は桜の季節に三崎へ訪れていません

桜御所跡(本瑞寺跡)か?

個人的な見解ですが、思ったほど見晴らしも眺望もそんなに良いとは思えませんでした。城ヶ島が視界の大よそを占めてしまうため、意外に遠くまで見渡すことができません。但し、『三浦半島城郭史』に、往時では丘陵の裾まで海が入ってきていたとありました。当たり前ですが当時とは随分と景観が違うようです。なんってたって橋が見えますからね。

桜御所からの景色

桃御所 見桃寺


三崎の西側に所在する見桃寺(けんとうじ)の辺りを桃谷と云います。桃御所としてこちらも三御所の一つに数えられています。見桃寺の創建は、『三浦半島の史跡みち』によれば慶長十八年(1613)、『三浦こども風土記』によれば天正年間(1573~1591)とありました。元々はもう少し海岸寄りに所在していましたが、波風を避けて現在地に移ってきたとありました。こちらは三御所のなかでも往時を想像するのが最も難しい史跡です。というのも、見桃寺がどうのというより、この辺りにあったと云う歌舞島に頼朝が来遊したという伝承があることから、三御所として数えられているのかもしれないからです。

見桃寺

大椿寺では頼朝が椿を、本瑞寺では頼朝が桜を植えたとありましたが、見桃寺では”頼朝が桃を植えた”とは記されていませんでした。後世にて”三崎三御所”を設定した人が、さすがに”椿に桜にと、いいかげん頼朝さまに植えさせすぎだろ”と”はばかった”のかもしれません。

歌舞島


現地案内板によれば、”歌舞島”は別名”兜島”と云い、往時は離島だったが、地殻の隆起によって現在のような海岸に突出した陸続きの小丘になったとありました。その名の由来として、”頼朝が歌舞宴楽を催したから”、”将軍頼経が読経歌舞を催したから”などと伝えられています。というか、地元で”兜島”と呼ばれていた訳ですから、単に”兜”が”歌舞”に転訛したという説が有力のような気もしますけど。

歌舞島付近 埋立地が広がるちょっと寂しいエリア

現地案内板に興味深い記述があります。「この辺り一帯の磯は岩礁の変化と男性的な海岸美で知られ、荒天どき千様万能の磯岩に挑んで白く砕ける黒潮の雄大さは、水煙千丈とでも形容すべき」と、この一文からは『吾妻鏡』にある「白波」が合致します。個人的には全くそのような情景を現地で感じ取れませんでしたが、よくよく案内板を見ると、現在は埋め立てによって情景は失われたとありました。

歌舞島付近からの失われた情景

頼朝だけじゃなかった三崎遊覧


源氏将軍が三崎の地に来遊したのは実は頼朝だけではありません。将軍実朝承元四年(1210)5月21日建暦二年(1212)3月9日将軍頼経寛喜元年(1229)4月17日寛喜二年(1230)3月19日にそれぞれここ三崎に訪れています。三浦義澄三浦義村らがその都度接待役を務めています。三浦氏全盛の時代だっただけにその接待もさぞかし豪勢だったのでしょう。

三崎港

冒頭で”三崎の三御所”を”後世の後付け感”漂うネーミングと揶揄しましたが、もしかしたら、頼朝だけでなく、この実朝や頼経などのために用意された御所の伝承が”三崎三御所”に紛れているのかもしれません。将軍頼経が訪れた寛喜二年(1230)に大椿寺が創建されているのは偶然でしょうか。

三崎遊覧スケジュールと北条政子


将軍ら一行は三崎にて何をしていたのでしょう。『吾妻鏡』によれば、船上での歌舞宴楽歌詠み鶴岡八幡宮の稚児たちによる舞、そして現地では小笠懸、さらに白拍子などの遊女らが同行している様子が記されています。また日程がわかるものとわからないものがありますが、どうやら最低でも一泊はしていたようです。実朝の一泊二日が最も短く、頼経の三泊四日が最も長い滞在となります。

城ヶ島から見たキラキラ星の海

頼朝の妙悟尼という妾の存在が気になるところですが、頼朝が三崎に初めて訪れた建久五年(1194)8月の一行には政子さんも含まれています。しかし政子さん何故か先に帰っています。何があったんでしょうね。

※参考資料『三浦こども風土記』『三浦半島の史跡みち』『三浦半島城郭史』



カテゴリー 探索記事(エリア別 三浦
記事作成  2016年8月11日

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