2016年8月18日木曜日

油壷史跡めぐり


今回は諸磯・油壷周辺の史跡めぐりです。以前に新井城跡の見学に油壷へ訪れましたが、今回はそのとき見逃していた周辺の史跡をめぐってみました。鎌倉遺構探索をいつも見ていただいている皆さまには地味な史跡かもしれませんが、念願の白鬚神社や義士塚などを見ることができました。

Google map 油壷

海外町のスランプ構造


三崎の西側、頼朝も訪れたという歌舞島の辺りから諸磯方面を望みます。

歌舞島辺りからの景色

三崎から諸磯・油壷方面に向かうと海外(かいと)町というところがあります。この辺りの丘陵壁面にはスランプ構造という珍しい地層を見ることができます。現地案内板によれば、スランプ構造とは、まだ固まっていない堆積物が一時的に海底などの斜面をすべり下った結果生じた堆積構造だとありました。丘陵壁面の模様が”グニャッ”となっています。

スランプ構造

諸磯湾・油壷湾


少し北上するだけで諸磯の辺りとなります。もう新井城のエリアです。三崎からこんなに近いのかと驚きます。三浦義同の時代に新井城と三崎の城郭が連携していたとありましたが納得の地理です。

諸磯の陸橋から見た景色 向こうに見える埋立地が三崎の西側突端

さらに進んでこちらは油壷湾の景観です。往時でもこのように三浦水軍の船が停泊していたのではないかと想像を掻き立てる”胸アツ”な景色です。

油壷湾

港というのは、考えてみれば当たり前かもしれませんが、波風の影響を受けにくい安定した場所が理想なんだそうです。浦賀港が”天然の良港”と云われるのは、湾が地形に深く入り込み、まさしく波風の影響を受けにくいからなんですね。そういった視点で新井城の諸磯湾油壷湾・小網代湾などを見ると、こちらもまたその波風の影響を受けにくい港として最適な地形であることがわかります。海に囲まれた三浦半島にあって、どうして義同ら三浦一族がわざわざここに拠点を置いたのか、この地形を見れば一目瞭然でしょうか。

Google map 油壷

諸磯神社


諸磯の半島状をした地形の先に諸磯神社がありました。昔は境内の造りが違ったのでしょうか、参道とはまた違う方向に鳥居があります。海がすぐそこです。詳細な縁起はよくわかりませんが、『三浦古尋録』に「浜磯村の鎮守」「神明社」などと記されているので、少なくとも近世の頃には既にあった神社のようです。

諸磯神社からの景色
参道とは別に海の方を向いた鳥居
諸磯神社

小桜姫神社?


ちなみにこの諸磯神社、グーグルマップには小桜姫神社と記されています。手持ちの著書・資料にはこの”小桜姫”なる女性の存在は何も記されていませんでした。ネットで調べてみたところ、パワースポットとかスピリチャル系の人たちがこぞって取り上げているのがわかります。史実とは関係なさそうなので、鎌倉遺構探索としてはスルーしておきます。


出口茂忠


諸磯神社の境内に寄進者として”出口”さんという方の名前が刻まれていました。油壷の町中では「出口工務店」「市政相談所 出口まこと」などと、この”出口”という名をよく目にすることができます。鎌倉でいうところの甘糟さんのような家柄でしょうか。

諸磯神社

実は三浦道寸義同の血縁者に出口茂忠という新井城落城後も城ヶ島で抵抗していた武士がいます。これに手を焼いた伊勢宗瑞は、出口茂忠、そして同じく三浦水軍の亀崎・鈴木・下里・三留らを三崎十人衆として北条軍に帰属させたと『相模三浦一族とその周辺史』にありました。ですからこの油壷の出口さんとは、三崎十人衆の出口茂忠の末裔ではないかと思われます。

白髭神社


小網代湾の奥に白髭神社があります。以前に『鷹取山の秘密』という記事を作成した際、古代日本に関する著書・資料を読み漁り、そのとき白髭神社が渡来人に関連するものだということがわかりました。神社が近づくと、近世の石像仏が道沿いに置かれていました。

小網代の石像仏

白髭神社は、三浦七福神の長安寿老人、そして航海の神の中筒男命を祀っています。現地案内板に「小網代湾が昔から廻船寄港地、また三崎の避難港として全国的に知られていた関係上、航海安全大漁満足の神としても古くから崇拝されてきました」とありました。新井城周辺の湾が港として優れていることがこのことからも伝わってきます。

白髭神社

白髭神社の壮大?な由縁


長安寿老人とは、大陸で信仰されていた神さまのようです。また「南極星の化身」という案内板の記述が気になります。これには同じく白髭神社の祭神である中筒男命が関係するようです。表筒男命中筒男命底筒男命の三神が住吉大社に祀られていることは周知されている事実ですが、さらに、この三つの筒男命がオリオン座として表され、航海をつかさどる神ではないかという説があるそうです。


羅針盤もない古代の航海では、自然界に存在する何かを目印にしなければなりません。大抵は北極星を頼りに舵取りをしていたようですが、もしかしたら、長安寿老人を信仰していた渡来人は、南極星、もしくはオリオン座を目印に日本にたどり着いたのかもしれません。さらに妄想するならば、人類の祖先がオリオン座からやってきたとかいうメッセージが隠れた信仰だったらロマンがあります。でもそこまでいくともう”ゆうこりん”レベルですね。

永昌寺


近くには海蔵寺の他、永昌寺というお寺があります。開基は三浦道寸義同で、”永昌”とは道寸義同の法号です。そしてまた義同の子の義意の妻室”霊照院”の卵塔が残されています。最後の相模三浦一族にとても関連深いお寺のようです。

永昌寺

義士塚


小網代湾から三浦の中心地へ向かうように進み義士塚を目指します。”いつのまにこんなに登ったのだろう”と不思議なほど高台となっていました。この日は雲が多かったため、伝わりづらいかと思いますが、下画像の眼下に見える街並みの向こうには海も見えるんですよ。義士塚から比較的近くにある”外の引橋”と呼ばれる場所は新井城の境界線でした。引橋が堀によって寸断されていただけではなく、このような高台の地形も利用していたのだということがここに来てわかりました。知れば知るほど新井城が最強の城だと実感してきます。

義士塚の辺りから

これまで見た塚といえば、仏法寺跡にあったものを思い出しますが、ここにある義士塚と呼ばれる塚は、予想をはるかに超える明確に塚とわかる形をしていました。ビックリ。逆にこれを塚というのかと勉強になった気がします。

義士塚

義士塚の由縁


義士塚は、新井城攻防で戦死した人たちの供養塚だと伝えられています。また、諸説として、三浦義意に戦いを挑んだ北条方の4人の武士が、義意に追い詰められたところ、義意の父の義同が「義意を相手に逃げずに戦うとはあっぱれ、生かしておけば何かの役に立つだろう」とその4人を逃がしたそうです。そして新井城落城後、その4人の武士たちは、あのとき逃がしてくれたことへの感謝を忘れず、ここ義士塚のある場所で自刃したと云われています。義意は85人力という、朝比奈三郎を彷彿させるような豪傑だったようで、義意相手にまともに敵が向かってくることはなかったそうです。ですからあの許された4人は、義意に立ち向かっただけ武士として評価できると義同が逃がしたんですね。


義士塚の近くにキレイなお花畑がありました。義士塚に添えられている花と同じものだったので、ここから持っていったのかもしれません。義士塚は現在も地元の人たちから丁重に扱われているようでした。

義士塚の近くにあった庚申塔類

※参考資料『三浦こども風土記』『三浦半島の史跡みち』



カテゴリー 探索記事(エリア別 三浦
記事作成  2016年8月18日

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