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今回の鎌倉遺構探索は山ノ内にある尾藤ヶ谷に訪れました。谷の奥が私道・民有地であるため、これまで奥に入ることはできませんでしたが、この度、尾藤ヶ谷に住む方と会うことができたので、奥へと入ることができました。
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Google map 尾藤ヶ谷 |
北鎌倉駅から鎌倉駅を目指すと浄智寺を過ぎた辺りで横須賀線の踏切が表れますよね、横須賀線線路に谷戸ごと破壊されてしまいましたが、あの踏切の奥を尾藤ヶ谷と云います。北条泰時が自分の邸内に住まわせる程のお気に入り、得宗被官の尾藤景綱の屋地だったことにその名が因みます。
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尾藤ヶ谷 |
尾藤ヶ谷
上記したように、尾藤ヶ谷は北鎌倉駅から県道21号線で鎌倉駅方面を目指し、浄智寺を過ぎるとある踏切の奥となります。谷戸入口に”香り仕事”といういかにも女性ウケしそうなお店があります。線路沿いに多くの”やぐら”があるのは前からわかっていましたが、崩落防止のための工事でフェンスの向こうに”やぐら”が閉じ込められていること、それからあまり奥に行ってしまうともうそこは私道なのは明らかだったので、これまで奥に入るのを”はばかって”いました。がしかし、今回偶然にも近くに住んでいる方と会うことができたので、”やぐら”の見学を申し出たところ、快く承諾していただきました。ありがとうございます。
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線路沿い フェンスの向こうに”やぐら”がある |
奥へ進むと傾斜のある坂道となり横須賀線線路を完全に見下ろす位置となります。そして丘陵壁面がほぼ切岸となっています。そういう形状なのか、もしくは風化したのか、よくわかりませんが”やぐら”跡らしき壁面も確認できます。かなりイケてる雰囲気にテンション上がります。
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尾藤ヶ谷の奥 右手に横須賀線線路 結構高い場所でしょ |
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なんか怪しすぎる丘陵壁面 |
周辺から一際目立つ立派な切岸に”やぐら”がありました。しかもですね、中世のものらしき石塔から近世、そして現代のお墓まであります。これはつまり中世からこの地が墓地だったことを物語るのでしょうか。ちなみに地元の方がおっしゃるには、墓地は現役で、市内の方が今でもお参りに来られるそうです。
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切岸とやぐら(右の横穴) |
さらに地元の方に「そこにもあるよ」とただの藪の平場を指差されました。「平場に”やぐら”があるの?」と思いながら平場に足を踏み入れると、なんと、この平場、段差のある”ひな段状地形”をしていることがわかりました。
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”やぐら”があるという平場 |
「蛇に気をつけなさい」と地元の方の指図どおり藪を掻き分けてみると、なんと、ホントに”やぐら”がありました。しかも先ほどの墓地の”やぐら”から一段低い位置にあるんです。横須賀線線路に破壊されたはずの尾藤ヶ谷に、切岸、やぐら、ひな段状地形と、これだけの典型的な鎌倉の地形が残されていることに驚きました。
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隠れていた”やぐら” しかもこちらは羨道有り? |
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○内にやぐら やぐらとやぐらの段差 |
藪の中から見つけた”やぐら”には羨道があるようにも見えましたが、何せこの状況です。あまり細かい観察ができません。ということで、なかなか見ることのできない”やぐら”を見せてもらい感激しながら地元の方に感謝を述べ尾藤ヶ谷を去りました。それでは、尾藤ヶ谷にはどのような歴史があるのでしょう。ちょっと調べてみました。
尾藤谷にあった寺院
『鎌倉市教育委員会の調査報告書』によれば、『尾藤某寄進状案』に尾藤谷に正法寺という寺院の名がみえるとあり、さらに谷の奥には悟性寺なる寺があったと記されています。『鎌倉廃寺辞典』によれば、この正法寺(しょうぼうじ)なるお寺は、明月院古絵図に描かれていて、さらに元亨三年(1323)北条貞時の十三忌供養の際には僧衆5人を参加させているとありました。ちなみに悟性寺(ごしょうじ)は16人とあったので、寺院としての規模の大きさがうかがえます。そして面白いことに、延文五年(1360)には足利義詮が極楽寺末寺の報恩寺に尾藤谷屋地を寄進したとあるそうです。極楽寺の律宗がこの尾藤ヶ谷に関与していた時期があったようです。これまでも大々的な”やぐら”群がある場所には必ずといっていいほど律宗の存在が見え隠れしてきました。ここ尾藤ヶ谷の”やぐら”群も律宗が関与しているのでしょうか。
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応永十三年(1406)には足利満兼が報恩寺敷地を名越の別願寺に寄進していることから、報恩寺がのちに尾藤谷から名越に移転していた可能性があるようです。
墓場の谷
尾藤ヶ谷には正法寺・悟性寺・報恩寺というお寺があったことがわかりました。この谷に3つもの寺院が入るとは思えないので、どれかが廃され、どれかが入れ替わるように入ってきたのではないでしょうか。またさらに宝鏡寺という寺院の存在が廃寺辞典に記されていましたが、横須賀線が開通する前には地蔵堂が残されていたとあったので、こちらは上記した3つの寺院が廃されたのちに建立された寺院なのかもしれません。それにしても、谷戸内はお寺ばかり。尾藤さんの屋敷地スペースはあったのでしょうか、余計な心配をしてしまいます。
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Google map 尾藤ヶ谷 |
極楽寺末寺の報恩寺の存在が記されていましたが、尾藤ヶ谷の尾根を超えると、なんと、清凉寺ヶ谷です。この谷戸にあった新清涼寺(廃寺)も律宗寺院で谷戸には100基以上の”やぐら”があると云われています。また尾藤ヶ谷の向こう側には法泉寺(廃寺)という寺院の存在が廃寺辞典に記されています。こうして地図で確認すると、尾藤ヶ谷の裏側は法泉寺・新清涼寺・浄智寺の裏山ともなります。墓地・霊地として絶好の場所です。中世からそう活用されてきた土地柄だったのではないでしょうか。こんな場所がまだ鎌倉に残されていたんですね。
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清涼寺ヶ谷のそれらしい痕跡 |
尾藤氏
尾藤景綱は、上記したように得宗家被官で初代家令に任命された人物です。北条泰時がわずか18騎で承久の乱に出陣したときの1人だと云われています。家令職を平盛綱に譲っていますが、同族の景氏(景綱の実子ではない)が尾藤氏としてその後も『吾妻鏡』にその名が記されています。ちなみに平盛綱は平禅門の乱で知られる平頼綱の祖父にあたり、また鎌倉末期にて権力の中枢にあった長崎氏の祖でもあります。そして下画像は北条泰時邸を示したものです。若宮大路の東側で八幡さまの南側の一画となります。尾藤景綱は泰時邸内の東南側に本邸があったそうです。
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Google map 泰時邸 |
尾藤氏から始まり平頼綱に長崎氏と、鎌倉時代を通してこのように繋がっていたんですね。ちなみに”頭は良いんだろうけどなんか胡散臭い”ことで知られる脳機能学者の苫米地先生が、”現在も薩摩・長州の末裔が政界に多い”と著書で述べています。ご存じのように、現在の政府は明治に薩摩藩と長州藩が中心になって築き上げてきた延長線にあるものです。やはり政府というのは余程の政変がない限り、一部のごく限られた権力者に代々受け継がれていくものなのでしょう。鎌倉時代の北条氏や尾藤氏のように、そして現代では薩長が。
カテゴリー 探索記事(エリア別 北鎌倉)
記事作成 2016年11月14日