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金沢流北条氏
金沢流北条氏とは、北条実時が武蔵国久良岐郡六浦庄金沢郷に館と菩提寺を構えたことに由来する通称です。北条義時の子の実泰を祖とする一族であるため、実泰流とも表されます。
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北条氏系図 |
元仁元年(1224)北条義時の遺産が分配され、実泰は六浦庄を給わります。実泰の通称の一つに蒲谷(釜利谷)殿とあるように、実泰は釜利谷に館を構えました。その後、実泰の子の実時が金沢に持仏堂として称名寺を建立したことから、六浦庄の中心が次第に金沢へと移っていくこととなります。
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金沢道から見た釜利谷 |
称名寺
実時は律宗僧の審海を称名寺に迎え、宋から一切経を輸入するなど多くの書物を集めることによって称名寺を学問寺へと発展させていきます。実時以後も称名寺は金沢家の菩提寺として代々厚く庇護され、貞顕の代で豪華絢爛な伽藍を擁する大寺院となりました。現在も往時の広大な敷地範囲を散策することができます。
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称名寺 |
金沢家系図と強運の貞顕
武家社会では母の家柄によって男子のその後の人生がほぼ決まってしまいます。ですから長男が必ずしも家を継ぐとは限りません。また系図を見ることによってその家にどんな事情があったのかを知ることができます。
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金沢家系図『金沢北条氏の研究』を参照して作成 〇は実泰の家督を継いだ人物 |
永井晋著『金沢北条氏の研究』系図を見る限り、実時の兄弟はすべて女子、そして顕時は単に正室の最初の子だったので嫡子となっています。面白いのが貞顕で、彼は正室の子でもなくさらに図を見る限り3人もの兄がいるのに嫡子となっています。これは顕時の正室安達泰盛娘から嫡子が出せなかったことや兄の早世など、色々な要因が重なった結果のようです。但しこのとき顕実が甘縄流として分家しているので、家督継承における対立が何かしらあった模様です。ちなみに貞顕の通称の一つに越後六郎とあるので、なんと、実際には5人もの兄がいたようです。
金沢家のリアルな人物像
金沢文庫に残された金沢家代々の肖像画は、生前に写したものと云われています。本人たちの姿を伝える貴重な資料です。顔部分をアップに代々の面々を並べてみました。特に右端の貞将なんかは、”誰だか思い出せないけどこんな顔の人見たことある”ってぐらいリアルに描かれていますね。
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金沢家人物像 |
金沢家の遺伝的特徴として、典型的な日本人の域を出ない彫りの浅い顔立ちであること、そして目じりが下がっている垂れ目気味の傾向がみられます。また、この時代にしては眉が細いように思えます。鎌倉時代から眉を整えるオシャレがあったのでしょうか、それとも髭も薄いように感じるので体毛が薄いタイプだったのかもしれません。まぁどちらにしろお世辞にもイケメンだったとは言えないようです。がしかし、男の魅力は”仕事力”ですからね。
金沢家の人脈と北条政村
金沢家代々に嫁いできた女性を図に表してみました。この時代の姻戚関係とはイコール同盟関係です。女性を調べることによって金沢家と同盟関係にあった一族がみえてきます。限られた駒(子どもたち)を使ってどの家と同盟を結ぶのか、当主の中長期的戦略がうかがえる事象です。下図の赤○は正室です。貞顕の正室はわかっていません。図だけ見ると顕時だけ多いように思えますが、未詳の女性を省いているからです。どの当主も妾を含め2~5人の妻がいたものと思われます。
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金沢家に嫁いできた女性 |
特筆すべきは、政村流との度重なる婚姻です。実時の妻が政村娘で、貞顕の妻が政村流の時村娘となります。実泰と政村は同母兄弟です。これだけでも両家には強い絆があるように思えますが、この時代、さらに同盟関係を強く意識していこうとする両家の思惑によるものなのかもしれません。その他、金沢家から出て行った女性をみると、小山氏・大江氏・足利氏・安達氏・千葉氏・名越家などの一族に嫁いでいることがわかります。この辺りが金沢家の人脈と成り得るのでしょう。
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再開発される前の金沢八景駅前 ○が千葉氏邸跡 |
上行寺に隣接した谷戸には嶺松寺というお寺が往時には存在していましたが、顕時の側室千葉泰胤の娘が開基と伝わっています。彼女がこの辺りに住んでいたのかもしれません。またお隣の上行寺を開いた日荷も千葉氏だと鎌倉遺構探索の『嶺松寺跡』にありました。さらに、瀬戸神社の神官が千葉氏です。瀬戸神社に隣接する駅前商業地がかつての千葉氏邸跡となります。こう調べると千葉氏と金沢家に深い繋がりのあることがわかります。
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上行寺東遺跡(浄源寺跡) |
貞顕の妻に”吉田家娘”と系図にあります。もしかしたら吉田兼好と同族でしょうか。上行寺からも近い浄源寺跡付近に吉田兼好が住んでいたと云われているので、貞顕に嫁いだ”吉田家娘”がこの辺りに住んでいたからなのかもしれません。
通称からわかる金沢家の人たちと赤橋亭の謎
通称は官職や屋地に由来することが多いので、そこから大まかな個人情報を得ることができます。実泰は、蒲谷(釜利谷)殿・亀谷殿・陸奥五郎などの通称があります。陸奥は北条義時の官職陸奥守に由来するもの、また蒲谷殿・亀谷殿からは釜利谷と亀ヶ谷に邸があったことがうかがえます。一方で実時の通称は、甘縄殿・称名寺殿・金沢侍所・陸奥太郎・陸奥掃部助・越後守などです。実時が掃部助や越後守の官職に就いていたこと、また甘縄殿とあるので甘縄に邸のあったことがわかります。金沢流から甘縄流が分家しているので、この甘縄流とは実時の甘縄邸を引き継いだことに由来するのかもしれません。
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Google map 鎌倉 ①時頼邸 ②泰時邸 ③赤橋邸 ④貞顕邸 ⑤守時邸 |
そして顕時は、赤橋殿・越後左近大夫将監・越後守などです。左近将監や越後守などのこちらも官職に由来するものと、そして赤橋殿という通称、これは”赤橋亭”に由来するものだとありました。じゃぁ赤橋流北条氏の邸はどこ?というと、『浄光明寺敷地絵図』に浄光明寺の隣に「守時邸」が描かれています。でもそうすると、今度は、”赤橋亭”に住んでいないのになぜ”赤橋流”と呼ばれているのかと疑問に思ってしまいますね。
金沢家の全盛期 貞顕
実時・顕時が引付衆・評定衆・引付頭人と昇進してきたコースとは異なり、貞顕は、六波羅探題南方・引付頭人・六波羅探題北方・連署という破格の出世コースを歩んでいます。そしてなんといっても、嘉暦元年(1326)には執権に就任するという金沢家の歴史上初の快挙を成し遂げています。実時・顕時と代々優秀な人材を輩出してきた金沢家の土台があったからこそという考えもあると思いますが、この時代、官職を金銭で買えるようなので、領地経営などで潤った金沢家の資産を貞顕が効果的に活用したという見方もできるのかもしれません。
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瀬戸橋 |
貞顕は称名寺を豪華絢爛な大寺院としただけでなく、瀬戸橋を渡すなど金沢のインフラ整備などにも着手しています。現在の瀬戸橋にあまり利便性を感じないかもしれませんが、当時の地形を考えると、かなり画期的な流通整備と評してもよいのではないでしょうか。
金沢家の墓所
称名寺境内に金沢家の人たちの墓塔が残されています。主なものとして実時の宝篋印塔、顕時・貞顕の五輪塔などがあります。顕時・貞顕のものと伝わる五輪塔は安山岩製の立派なもので、多宝寺跡(浄光明寺)にある覚賢塔を思い起こさせます。石工のスペシャリストを抱えていたという律宗ならではの技術力でしょう。
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実時墓所 |
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貞顕の五輪塔 |
実時宝篋印塔の左隣にある五輪塔は称名寺境内絵図に「入殿」と記されています。これは実時の娘で晩年に貞顕を養子とした女性の墓だと永井先生の著書にありました。また、実時墓所からも近い場所に「次郎入道殿」と絵図に記された箇所があります。こちらは顕時の兄の北条篤時となるそうです。東勝寺で自刃したなどの説もあるそうですが、こちらは複数人物の伝承が紛れ込んでいるため定かではありません。次郎入道殿の墓所は藪に覆われていますが、現地に行くと平場となっていることがわかります。
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実時墓所 ○が入殿 |
顕時の正室安達泰盛娘は、法名を無着と云い、海岸尼寺(廃寺)の開基とあったので、称名寺の隣にあった尼寺を開いた人物だったようです。また、貞顕の兄の顕弁の通称を大夫僧正と云います。僧侶として人生を歩み、園城寺別当から右大将家法華堂別当に転出し、のちに月輪院に入ったとありました。たぶん御坊ヶ谷にあった月輪寺のことだと思われます。月輪寺の”やぐら”に(北条)首やぐらと呼ばれるものがあります。もしかしたら顕弁が月輪寺で北条氏を弔っていたからこそ伝えられた伝承なのかもしれません。
参考資料
『現代語訳吾妻鏡』(吉川弘文館)『かまくら子ども風土記』『鎌倉廃寺事典』その他、鎌倉市教育委員会の調査報告書など。
カテゴリー 鎌倉遺構探索事典
記事作成 2017年1月1日