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昨年は、鎌倉を離れ、大山・曽我・箱根・真鶴などで鎌倉遺構探索をしてきました。海と山を体感できる鎌倉さえも凌ぐ自然豊かな場所で歴史の痕跡をたどることができる楽しい体験となりました。そしてこれらの土地に共通してあったのが、今回のテーマである修行用の横穴、ずばり修行窟です。鎌倉遺構探索が追い求めてきた”やぐら”(中世の横穴墓)とも共通点のあるとても興味深い遺跡です。ということで、今回は鎌倉を含む神奈川県内に残された修行用の横穴を特集してみました。
修行窟の伝承
伊勢原市にある日向山に近い場所に浄発願寺跡(浄発願寺奥の院)という史跡があります。ここには木食上人と呼ばれた弾誓が修行のために用いたとされる横穴がありました。この横穴は通常の”やぐら”よりやや奥行きがあり、時代なのか、用途が違うからなのかわかりませんが、葬送のための横穴である”やぐら”とは、掘り方・削り方などが少し異なる様相をしています。弾誓はここで仏像の制作などを行っていたと云われています。
木食上人の修行窟 内側から |
同じく日向山にある日向薬師の奥の院にある横穴は、修験者や僧侶の修行の場であったことが伝えられています。現在は使われていない登山ルート上にあり、急峻な崖が容易な進入を阻みます。
日向薬師奥の院 |
その他、曽我には澄禅窟(ちょうぜんくつ)と呼ばれる史跡が残されています。こちらは澄禅という僧侶が古墳時代末期横穴を修業窟としていたようです。また鎌倉は岩瀬の西念寺にある古墳時代末期横穴墓は、西念寺住職の修行の場として用いられていたことが伝えられています。
西念寺の古墳時代末期横穴墓 |
修行窟の分布
僧侶が修行をしたと伝わる横穴の伝承はそれほど多くはありませんが、下図に示したように広範囲に残されています。個人的な見解ですが、実際に横穴に籠って修行をしていたという僧侶の例は数えきれないほど多くあったと思われます。古くは行基が、鎌倉時代では文覚が江の島に籠っていたように、横穴で修行をすることがそれほど珍しくないため、わざわざ伝承として伝えるほどではなかったのではないでしょうか。また、今回のテーマは鎌倉遺構探索の過程で偶然に得た情報なので、特化して調べればもっと多くの事例があるのかもしれません。
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Google map 修行窟の分布 鎌倉・大山・曽我・箱根塔ノ沢・真鶴・伊豆などに残る横穴 |
詳しい位置情報を知りたい方は最下部にグーグルマップがあるのでそちらを参照してください。
鎌倉にある修行窟
鎌倉にある横穴に今回のテーマである修行窟に当てはまるものがいくつかあります。近世に描かれた瑞泉寺の絵図に「座禅窟」と記された横穴があることから、瑞泉寺のどこかに座禅をするための横穴があったことがうかがえます。また同じく瑞泉寺の庭園遺構にみられる横穴も座禅や瞑想に持ってこいのシチュエーションではないでしょうか。
瑞泉寺庭園遺構 |
英勝寺にある2つの出入り口がある横穴には仏像が祀られており、こちらも修行の場として活用されていたと考えられます。お寺の関係者によれば、英勝寺が徳川家に縁が深いことから、徳川家康がその横穴に籠ったのではないかという見解があるそうです。
英勝寺にある横穴 |
そして、修行窟というテーマに近い史跡ということで、長谷寺の弁天窟を取り上げてみました。弁天窟には仏像が彫られていることから、窟内が礼拝などの対象になっていたことがうかがえます。またそういった意味では田谷の洞窟も修行窟のカテゴリーに加えても間違いではないでしょう。但しあそこまで大きいと横穴というレベルではありませんけどね。
長谷寺弁天窟 |
特殊型やぐら
鎌倉の山に無数に開口する”やぐら”(中世の横穴墓)の中には葬送のためだけではない横穴がみられます。代表的なものとして、百八やぐらにある仏像と梵字が掘られた横穴。こちらは修行窟とは一概には言えませんが、祈祷・礼拝を行う施設でもあったことは明白でしょうか。
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百八やぐらにある特殊型 |
修行窟の種類
これまでに確認した修行窟には、自然の条件によって作り出された横穴を利用したもの、古墳時代末期横穴墓を改変したもの、そして弾誓の横穴のように修行の場などの理由などで新築したものがあります。また、修行目的のものと、特定の個人だけでなく多くの人が立ち入り祈祷などを行う一種の伽藍のような要素を持つものがあります。弾誓の浄発願寺跡・阿弥陀寺のものは修行目的のもの、長谷寺・如来寺跡などにあるものは仏像などを取りそろえているため、祈祷・礼拝も行う一種の伽藍設備と言えるでしょう。
しとどの窟 火山活動によって出来た横穴 以前から礼拝の対象となっていた |
湯河原にあるしとどの窟は、以前から巡礼の対象になっていたようで、関連する石造物や巡礼路の一部などが残されています。しとどの窟は火山活動によって出来た横穴で、さらに湯河原には実はもう一つしとどの窟と呼ばれる横穴が存在し、そちらは海蝕洞穴と、同じく自然条件によって出来た横穴となっています。
如来寺跡に残された横穴 各種仏像が取りそろえられており一つの世界が出来上がっている |
真鶴にある如来寺跡の横穴には各種仏像が取りそろえられており、冥界を示す一つの世界観が出来上がっています。田谷の洞窟のように、横穴自体が伽藍の機能を果たしていると言ってもいいのでしょう。
地下式伽藍 田谷の洞窟 |
謎の修行窟
上でも紹介した浄発願寺の弾誓は、箱根塔ノ沢の阿弥陀寺でも横穴修行をしていたと云われています。こちらでは2つの横穴があったため、弾誓のものなのか定かではありませんが、一つは横穴の深さが洞窟と表現していいほどのものでさらにY字状となっており副室を併せ持つものでした。
阿弥陀寺裏山にある深~い横穴 |
洞窟内は壁面から底面まで赤褐色をしていたことから、この山自体が鉄分を多く含む鉱山であったこと、もしくは洞窟内にて長期間に渡って鉄製品を保管していたことなどがうかがえます。そしてこの弾誓をよくよく調べると、弾誓とその信者らが日本各地の鉱山のある場所に限って姿を現しているため、修行とは異なるもう一つの思惑や目的があったのではないかと勘繰りたくもなってしまいます。
阿弥陀寺が云う弾誓の修業窟 |
カリスマの修行窟
頼朝の旗上げに大きく関わった人物としても知られる文覚は、江ノ島で祈祷を行っていたことが『吾妻鏡』に記されています。江ノ島には海蝕洞穴がいくつも開口しているため、実際に文覚が籠った横穴を特定することはできませんが、この地にあるどこかの横穴に彼が訪れたことは確かなようです。
江ノ島の岩屋 |
伊豆にある旗上不動(滝山不動)にも文覚が訪れ祈祷を行っていたという横穴が残されています。こちらの横穴は1km以上離れた毘沙門堂に繋がっているという一概には信じられない伝承が伝えられています。
旗上不動にある文覚の横穴 |
どこかに繋がっているという話は色んなところで聞くことができます。例えば今回のテーマに沿うものであれば、田谷の洞窟内にある穴は、朝比奈三郎が和田合戦の際に逃げ道として使用したもので、なんと、富士山まで繋がっていると云われています(笑)
富士山に繋がっているという田谷の洞窟内にある穴 |
横穴の世界観
イザナギが洞窟を通って黄泉の国にいるイザナミに会いに行ったように、太古の昔から洞窟(横穴)は別世界に繋がる入り口だと考えられています。人は光の届かない深い深い洞窟を目の前にしたとき、どこか別世界に行けるのではないかと想像したのでしょう。古墳時代横穴墓に”やぐら”など、古代から中世まで、横穴を墓地としてきた例が多々あるように、人は暗闇が支配する横穴に畏怖の念を感じつつ、別世界を見出していたのはないでしょうか。
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鎌倉の山に開口する”やぐら”にほんの一瞬だけでも身を潜めると、この世界には自分しか存在していないんじゃないかという不思議な感覚に陥ります。何処にいても一人になれるスペースのない都市部に住む現代人にとって横穴の持つ暗闇と静寂は経験したことのない完璧なパーソナル・スペースと言えます。横穴に籠っていた先人たちは、それぞれのパーソナル・スペースとなる修行窟を見つけ、暗闇と静寂の中で答えを探していたのではないでしょうか。
この記事を最後まで読んでくれた皆さま、感謝の気持ちとして一言、一瞬でもいいから横穴に籠ってみることをお勧めします。完全で完璧な孤独は俯瞰のような状態に容易に陥ることができます。そこで普段の自分では思いもつかないアイデアや答えが降りてくることでしょう。
カテゴリー 鎌倉辞典
記事作成 2018年1月1日