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藤原資盈と三崎の四方結界

2018/01/03

カ)三浦半島 考察・研究

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藤原資盈


筑紫国を領していた藤原資盈は、清和天皇の皇位継承争いにおける伴大納言善男の謀挙に加担しなかったため、朝廷から兵を送られることになりました。このとき資盈は、家族・郎従ら53人と共に船に乗り東国へ向かい逃れたものの、暴風のため船は難破、貞観六年(864)11月、わずか主従6人だけが三崎に漂着するという結末を迎えます。その後、三崎に拠を構えた資盈は、海賊の退治や村人への教化など、三崎の人たちに貢献したため、天正五年(982)に彼を祭神として祀る海南神社社殿が造営され三浦郡の総鎮守となりました。

三崎公園

海南神社


遊覧船乗り場やバス停のある三崎で最も賑やかな三崎公園からも近い場所に藤原資盈を祀る海南神社が所在します。資盈の死後に社殿が造営されたので、もしかしたら海南神社は資盈の屋敷跡だったのでしょうか。鳥居から続く道が一直線に続いていて結構距離があります。


訪れたとき社殿は改装中だったようで、幕で隠されていました、残念。金毘羅さまやお稲荷さまなどが合祀されている他、三浦半島の各地にある御霊神社に、何故か源為朝を祀る疱瘡神社なるものまでありました。

海南神社

方々に祀られた資盈の郎従


興味深いことに、資盈の郎従が三崎の方々に祀られています。太郎が向ヶ崎の諏訪神社次郎が宮城の住吉社三郎が城ヶ島の楫の三郎山四郎が城ヶ島の安房崎・洲ノ御前にそれぞれ鎮座しています。

Google map 三崎
①諏訪神社 ②住吉神社 ③楫の三郎山 ④安房崎・洲ノ御前 ⑤海南神社

太郎が祀られている諏訪神社


郎従の太郎が祀られたという諏訪神社は、その太郎が祭神と伝わってはいるものの、応仁年間(1467~1468)に創建されたと古書にあるそうです。

諏訪神社

ちなみに玉縄城主郭の最も標高の高い場所を諏訪壇と云い、往時では諏訪神社が祀られていました。現在は龍宝寺に隣接しています。そんな理由から、ここ三崎の諏訪神社も三崎城にいた後北条氏によって創建されたのでないかと思いましたが、時代的には三浦氏時代のものです。ひっそりとした境内からは北条湾を眺めることができます。カワイイ狛犬が印象的でした。

諏訪神社の狛犬
諏訪神社が見守る北条湾

次郎が祀られている住吉神社


郎従の次郎が祀られているのが住吉神社です。海南神社からも比較的近い場所にあります。こちらは残念ながら詳しい縁起がよくわかりません。住吉神社といえば、鎌倉の飯島・小坪にまたがる住吉城にあるので、こちらも三浦氏か後北条氏に関連するのかもしれません。

住吉神社
住吉神社付近から港が見える

三郎が祀られている楫の三郎山


明確な伝承が伝えられていたのが、三郎が祀られたと云う城ヶ島の”楫の三郎山”。この辺りは資盈らの船が難破したときに一行が漂着した場所で、そのとき船の楫(舵)取りをしていた三郎の遺体が流れ着いた場所とも云われています。

城ヶ島の楫の三郎山

現地案内板によれば、この山に大蛇がいるため、登ると”たたり”があるとの言い伝えがあり、大正時代まで誰一人登ったことがなかったとありました。そのためか、なんと、三浦時高によって建てられた墓碑の一部が残されていると『三浦こども風土記』にありましたが、現地ではそれらしきモノを確認することはできませんでした。どちらにしろ、近現代まで誰もこの場所に近づいていなかったようです。

三郎山の頂部

どのような由来があるのかわかりませんが、丘の頂には石塔が丁重に祀られています。六国見山ハイキングコース上にある稚児墓と呼ばれる石塔と似ています。

三郎山に祀られている石塔

四郎が祀られている安房崎・洲ノ御前


四郎を祀ったと云われるのが城ヶ島にある安房崎、もしくは洲ノ御前と呼ばれる場所です。房州にある洲崎明神の社地と相対するため、安房崎とも洲ノ御前とも云われています。一帯はゴツゴツした岩礁に波が激しく当たります。そして底部一面が”星の砂”という美しい浜で、岩礁に弾ける波のせいか、海の色がここだけエメラルド・グリーンとなっていました。

安房崎・洲ノ御前
安房崎の星の砂

ちなみに下画像は八景原と呼ばれる三崎の手前にある宮下橋から見た安房崎の先端部です。目印の灯台と激しく打ち付ける波の様子を眺めることができます。八景原は近世頃まで自殺の名所だったことで知られています。自殺の名所ということはつまり高台にあって遠くを見渡せる景勝地でもあるということです。

八景原宮下橋からの景色

郎従たちが四方に祀られた謎


さて、ここで気にかかるのが、三崎・城ヶ島界隈の四隅にうまいこと郎従の4人が祀られ配置されている点です。郎従たちを弔いたいのであれば、一ヶ所にまとめて墓所を作ればよいものを、どうしてわざわざこのようなことをしたのでしょう。こうして地図上にプロットするとなんとも怪しい図形が現れます。『吾妻鏡』にある”四角四境祭”を連想せずにはいられません。

Google map 三崎
①諏訪神社 ②住吉神社 ③楫の三郎山 ④安房崎・洲ノ御前 ⑤海南神社

『吾妻鏡 必携』によれば、四角四境祭とは「奈良時代以来、内裏の四隅に祭壇を立て、疫病が宮城に侵入するのを防ぐために四角祭を行っていた」とあります。4人の郎従を三崎の四隅に祀ったのは、四角四境祭、もしくはそれに似た儀式、または何かしらの結界を張ったことを示すものではないでしょうか。この四角形が何を表すのか実際のところよくわかりませんが、資盈とその郎従たちが死後も三崎の町を守っているように思えます。資盈が海南神社に祀られ三崎の総鎮守として扱われる訳には、もっと深い理由があるのではないかと思わずにはいられません。・・というロマンがこの四角形に隠させていたら素敵なお話ですね。

※参考資料『三浦こども風土記』

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