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長楽寺は、長谷の鎌倉文学館の辺りに元々あったと云われています。文学館は、昭和11年(1936)に旧加賀藩主前田家第16代当主の前田利為が建築した建物を再利用したものです。そこにはかすかながらも寺院跡ではないかと思われる痕跡が残されていました。
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鎌倉文学館にある長楽寺跡の碑 |
字長楽寺
鎌倉文学館のある辺りをその名も長楽寺ヶ谷と云います。『鎌倉廃寺辞典』(以下廃寺辞典)には、ここ長谷の他にも材木座と坂ノ下に「長楽寺」という字名が伝わっているとありました。不思議ですね、長楽寺は鎌倉中を移転していたのでしょうか、それとも飛地の寺領でもあったのでしょうか。
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Google map 鎌倉 ①鎌倉文学館(長楽寺跡) ②安養院 ③材木座 ④坂ノ下 |
『かまくら子ども風土記』(以下風土記)によれば、長楽寺は元弘年間(1331~1333)の頃に焼失したと云われています。その後、現在の安養院の地に移されました。しかし、延宝八年(1680)にまた焼失してしまったため、比企ヶ谷にあった田代観音堂を移して再興されています。安養院は祇園山長楽寺安養院と号します。
文学館への道
鎌倉文学館へは、長谷寺行きのバス、もしくは江ノ電の由比ヶ浜駅を下車して向かいます。由比ヶ浜駅からは、海を背にしてまっすぐ歩いていれば文学館入口の交差点に出るので迷うことはないでしょう。交差点の手前には染屋太郎時忠の屋敷跡という碑があります。染屋太郎時忠は、神亀年間(724~728)頃まで鎌倉に邸を構えていた関東八ヶ国の総追捕使です。
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交差点文学館入口 |
前面バス通りは長谷小路、もっと昔は大町大路と云い、古東海道の道筋であったと考えられます。(『鎌倉を通っていた古東海道はどこへ?』)
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大町大路もしくは長谷小路 向こうの山腹に見えるのが長谷寺 |
鎌倉文学館
鎌倉文学館は長楽寺ヶ谷の奥まった位置に所在しています。前述したように、以前は加賀藩前田家の別邸で、その後佐藤栄作の別荘となり、最終的には鎌倉市に寄贈され文学館となりました。昭和初期に建てられた洋館内には、鎌倉市にまつわる文豪たちの作品や直筆の書などが展示されています。庭園には多様な種類のバラが植えられており、特に鎌倉小町と名付けられたバラが人気でした。
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鎌倉文学館 旧前田邸 |
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もみじと苔のコラボ |
長楽寺の痕跡か?
さて肝心の長楽寺の痕跡はというと、園内にやぐららしき横穴が確認できます。形状的には古墳時代末期横穴墓のようにも思えます。遠目からもわかるように削り方が荒いので防空壕の類ではないと思います。
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怪しい横穴 |
そしてこの横穴のある丘陵沿いの人目の付かない場所に中世のものらしき石塔を並べた窟穴がありました。卒塔婆まであります。
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石塔はこの山一帯に落ちていたものを前田家が別荘を作る際にこの横穴に集めたものかもしれません。長楽寺がこの地に所在していた頃にこの横穴がやぐらとして転用されていたのかまではわかりませんが、あの石塔の数からも、少なくともここに寺院があったと考えて間違いではないでしょう。
長楽寺の地形と万寿寺
文学館(下地図画像①)のある平場は広大です。元々長楽寺があった地形を基礎にしているのかと思っていましたが、実際に見てみると、ちょっと違うようです。やぐら②を営む寺院①がやぐらより標高の高い場所に位置することは、これまで見てきた鎌倉寺社のパターンからはあまり考えられません。したがって長楽寺のお堂は、地図画像の③、あるいは④の平場に所在していたと思われます。但しあの横穴が当時やぐらとして転用されていればという前提の話です。
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Google map 長楽寺ヶ谷 ①文学館 ②横穴 ③平場 ④平場 ⑤甘縄神社 ⑥平場 ⑦文学館入口 |
現在ある庭園は前田家が別荘として新たに山を切り崩した地形ではないでしょうか。甘縄神社(地図画像⑤)と比べても平場部分が大きすぎます。また廃寺辞典には、長楽寺の隣に万寿寺という寺院が印されています。ちょうど地図画像⑥に丘陵部内にぽつんと取り残されたような平場が確認できます。もしかしたら万寿寺の痕跡なのかもしれません。ちなみに万寿寺は、弘安九年(1286)に執権貞時が父である時宗のために創建した禅宗寺院であったと云われています。が、こちらもあまり定かではないようです。
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文学館の広大な庭園 |
長楽寺縁起
嘉禄元年(1225)に、北条政子が源頼朝の菩提を弔うために長楽寺を建てたと云われています。『鎌倉市史 社寺編』には、もと律宗で願行房憲静が開山とあります。その他『新編鎌倉志』に「此谷ニ昔シ寺有、長楽寺ト号ス、法然ノ弟子隆寛住セシトナリ」とあるように、北条政子とは関係のない浄土宗寺院であったとも考えられます。ちなみに風土記はこちらの浄土宗説を支持しているようでした。移転を機に律宗から浄土宗に改宗したのでしょうか、もしくは元々浄土宗だったのでしょうか、この謎解きのヒントとして、『日蓮聖人御遺文』に、日蓮が目の仇にするほどの高僧が長楽寺にいたという逸話が記されているそうです。
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安養院 |
情報がバラエティにとんでいて複数のお寺の情報が混在しているようにも思えます。もしくは、お寺はなるべく歴史を古く見せかけたり、なるべく高貴な人物を縁起に絡めようとする傾向がみられるので、これら情報の一部は取って付けたようなものが紛れているのかもしれません。
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記事作成 2016年6月1日