竹崎季長と蒙古襲来絵詞
蒙古襲来絵詞とは、竹崎季長が元寇(文永の役・弘安の役)の様子を描かせたもので、当時の詳細な様子を絵巻で表しています。内容は絵巻を発注した竹崎季長を中心に描かれていますが、蒙古襲来に応戦した他の御家人も登場しています。当時の鎌倉武士の姿だけでな...
三浦氏はどこに行ってしまったのか
永正十三年(1516)7月11日、三浦道寸義同が伊勢宗瑞(北条早雲)の攻勢に耐え切れず、新井城にて自刃、これにて最後の相模三浦一族が表舞台から姿を消してしまいましたが、その後、残された三浦氏及び一族はどこに行ってしまったのでしょうか。今回はその三...
称名寺裏山(称名寺市民の森)ハイキングコース
裏山こそ鎌倉寺社の醍醐味です。ということで、今回の記事では称名寺の裏山、もしくは称名寺市民の森のハイキングコースをご紹介します。称名寺に向かって右側にあるハイキングコース入り口①から日向山・稲荷山・金沢山を経て称名寺境内に戻ってくるコース...
青岳尼と尼五山一位太平寺
尼五山第一位の太平寺住持を務めた青岳尼は、実名・生年ともに不詳となっています。但し弟の足利頼純の在命期間が1535~1601年とわかっているので、青岳尼の生年は少なくとも1535年以前の生まれだと推定されます。没年は興禅寺にある供養塔から天正四年(1576...
房総・紀伊半島の類似点と三浦一族
房総半島(千葉県)と紀伊半島(和歌山県)には、地名・食文化・方言など、多くの共通点・類似点のあることが指摘されています。今回はこの両者の共通点・類似点の訳とは、というテーマで迫ってみたいと思います。房総半島・紀伊半島の面積は共に約5000平方キロメートルで、気候も植生も似通っていてます。このように両者には多くの類似・共通項が見出せます...
由比ヶ浜中世集団墓地遺跡
鎌倉の由比ヶ浜周辺からは、多くの人骨が出土しており、(下画像①)鎌倉簡易裁判所の辺りから500体以上の遺骨が発掘され、中世集団墓地遺跡と呼称されています。また(下画像②)鎌倉海浜公園の辺りから出土した遺跡は由比ヶ浜南遺跡と呼称され、こちらでは14世紀後...
天秀尼と東慶寺
東慶寺の歴史を語るうえで欠かせないのが、第二十世住持の天秀尼(てんしゅうに)と云われています。元和元年(1615)大阪の陣により、豊臣家が滅亡したため、7歳の時に徳川家康の命で東慶寺に入山し尼となります。徳川方に身柄を引き渡された際、千姫が養母にな...
朝比奈三郎義秀の伝承は本当か?
この記事では、鎌倉時代の「リーサルウエポン」、もしくは「戦場の死神」としか表現できない最強の人類、三浦一族の朝比奈三郎義秀という人物について取り上げてみました。朝比奈三郎義秀は、和田合戦(1213年)での壮絶な活躍から、三浦和田一族でありながら、...
建長寺歴代住持
建長寺の歴代住持を調べてみると、どこかで聞いたことのあるような名前ばかりです。「この人も建長寺にいたの?」という「オールスター感」は半端ありません。ということで、今回は建長寺歴代住持のなかでも特に有名な歴史上の人物に焦点を当ててみました。記...
三浦氏系図
三浦氏は、康平六年(1063)に前九年合戦の功績として、平為通が三浦郡を獲得し、衣笠城を築き三浦氏を称したのが始まりとされています。三浦氏系図には諸説あるものの、『新横須賀市史』によれば、良文ー忠道ー忠通ー為通ー為継ー義継ー義明という系譜が各諸系図...
弁ヶ谷 北条時政邸跡
鎌倉の材木座にある丘陵部周辺を弁ヶ谷と云います。谷戸内には最宝寺・崇寿寺・新善光寺という源頼朝や北条氏に関連する寺院があったと考えられていますが、現在の弁ヶ谷は跡形もなく宅地化されてしまっているので、寺院跡の痕跡もやぐらも何も残されていません。...
円覚寺塔頭まとめ
この記事では、円覚寺境内にある塔頭をまとめてみました。塔頭とはいえ、調べてみると開基に有名な歴史上人物の名が現れたりするんですよ。塔頭の歴史を調べることにより本寺である円覚寺の理解がさらに深まると思います。仏日庵(ぶつにちあん)は北条時宗の墓...
天秀尼の墓|東慶寺
元和元年(1615)に大阪の陣で豊臣家が滅亡したことにより、豊臣秀頼の娘である天秀尼は徳川方に身柄を引き渡されてしまいます。しかしこのとき徳川家康の娘の千姫が養母になったことから、東慶寺への入山を条件に助命されたと伝えられています。千姫の後ろ盾を得...
建長寺回春院と地獄谷
建長寺回春院のある辺りは、元々地獄谷と呼ばれた処刑場でした。ですからある意味で、建長寺が創建された建長五年(1253)より古い歴史があるといえるでしょう。この記事ではその地獄谷周辺と建長寺塔頭の回春院に焦点を当ててみました。建長寺中心伽藍を抜け、...
願成就院と旧境内
願成就院 伊豆の国市に所在する願成就院は、北条時政が文治五年(1189)に奥州合戦の戦勝祈願のために建立した寺院です。またその北条時政が運慶に依頼して造立した仏像が願成就院には遺されています。運慶の仏像は東日本では横須賀浄楽寺とここ願成就院にしかあ...
伊豆北条の地
源頼朝が流人として蛭ヶ小島に流されていた頃、北条時政が一介の地方在地領主だった頃、『吾妻鏡』の最初の舞台となるのが伊豆・韮山です。『吾妻鏡』では、この辺りを「伊豆国北条」と記しています。韮山の中でも特に北条氏邸などがあった辺りを指しているのだ...
中世安房国の勢力図と三浦一族
房総半島の旧安房国圏内(南房総市・館山市・鋸南町・一部を除く鴨川市)を中心に、安房国における在地領主らの勢力の移り変わりと三浦一族の痕跡をまとめてみました。安房国は平北郡(鋸南町、旧富山町、旧富浦町、旧三芳村の滝田・国府地区、館山市船形・那...
三浦義村の墓|福寿寺塔頭南向院跡
三浦市の金田港の近くにある福寿寺の塔頭・南向院跡に三浦義村の墓とされる石塔があります。原型が全くわかりませんが五輪塔とのことです。『新編相模国風土寄記稿』に「碑高七尺許」とあるので2mもの大きさの石塔でしたが関東大震災によって海中に一度落ちてしま...
追浜の地名の由来の検証
今回は、横須賀市にある「追浜(おっぱま)」の地名の由来とその検証を行ってみようと思います。はじめて「追浜」と聞いたとき、思わず聞き返してしまいました。どこか聞きなれないインパクトのある不思議な地名ですよね。京急線追浜駅周辺は、大正3年(1914)に町制...
覚海円成尼 【最後の得宗執権の母】
最後の得宗執権北条高時の母が覚海円成尼(かくかいえんじょうに)です。元弘三年(1333)の新田義貞の鎌倉攻めにより、その栄華が一瞬にして灰燼に帰し、鎌倉から一転、伊豆韮山で晩年を過ごしたとされています。この記事では、その覚海円成尼の生涯と、彼女に...
鎌倉遺構探索
QooQ
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