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三浦半島の記事一覧

鈴木かほる著『三浦半島の史跡みち』より
三浦半島を歩くと決めたら、ただ緑の美しさに感嘆して帰ってしまうには余りにも惜しい。三浦半島は古代から中世、近世を通して重要な陸路が横断し、その道は、時代の流れと共に多くの文化を伝えてきた。そこには様々な史跡、史話が残され、先人たちのドラマが染み込んでいる。



三浦市の海岸線からの景色は、東京から一時間ちょっとで訪れることができる距離にあるとは思えない美しさです。そして三浦半島には自然だけではなく多くの興味深い史跡が存在します。何と言っても、三浦半島といえば三浦氏の史跡、また良い意味で閉塞的な葉山町など、海からの影響を受けやすい地域特有の歴史と文化がそこに広がっています。このページではそんな三浦半島の記事をまとめてみました。

三浦市


三浦義村の墓|福寿寺塔頭南向院跡

三浦義村の墓|福寿寺塔頭南向院跡

三浦市の金田港の近くにある福寿寺の塔頭・南向院跡に三浦義村の墓とされる石塔があります。原型が全くわかりませんが五輪塔とのことです。『新編相模国風土寄記稿』に「碑高七尺許」とあるので2mもの大きさの石塔でしたが関東大震災によって海中に一度落ちてしま...

新井城跡

新井城跡

永正九年(1512)、伊勢宗瑞(北条早雲)が岡崎城を落とし、三浦氏は住吉城まで後退を余儀なくされました。後北条氏の支配は三浦半島を除く相模のほぼ全域に及ぶこととなり、これより本格的に両者が対峙していくこととなります。三浦義同(道寸)は、住吉城から後...

毘沙門洞窟と盗人狩

毘沙門洞窟と盗人狩

三浦半島南端の毘沙門にある海蝕洞穴に行ってきました。正式名称を 毘沙門洞窟弥生時代住居跡群 と言います。その名のとおり、ただの海蝕洞穴じゃありません。弥生時代から住居や墓として活用されてきた洞窟です。また近くにある 盗人狩 という場所にも行ってみました。盗人狩はただの地形かと...

葉山町


新善光寺(葉山町)

新善光寺(葉山町)

『鎌倉廃寺事典』(以下廃寺事典)によれば、宗旨未詳。そして北条泰時が死去した際に新善光寺智導上人が念仏を勤めたとあります。また「風土記稿に新善光寺跡、名越にあり、新善光寺屋敷と唱う」とも記されています。実際にここ葉山の新善光寺に訪れてみると、浄土宗と縁起にあり、また『葉山町の歴史とくらし』(以下葉山町)には光明寺末寺とも記されていま...

鐙摺城跡

鐙摺城跡

三浦半島の入口となる鐙摺(あぶずり)にあったと伝わる砦は、三浦一族の城郭で、古くは『源平盛衰記』にもその存在が記されています。治承四年(1180)の小坪合戦(由比ヶ浜合戦)において、三浦一族と畠山重忠の軍勢が争った際、和田義盛が三浦義澄に対し...

長柄と長江一族

長柄と長江一族

長柄桜山古墳のある丘陵南側の谷を長柄と云います。葉山とはいえ、逗子との境に接するのでそれほど遠くは感じません。そして三浦半島を横たわるように存在する丘陵を、通称三浦アルプスと云います。阿部倉山・二子山・仙元山など、鎌倉の丘陵よりいくぶん高い...

葉山町上山口と三浦山口有綱

葉山町上山口と三浦山口有綱

葉山町の上山口は、近世まで下山口とともに山口郷と呼ばれていました。鎌倉時代にこの地を治めていたのが、三浦義澄の次男・有綱です。確証はないものの居城は栗坪の大昌寺だと『葉山町の歴史とくらし』にありました。ということで、今回は三浦一族の三浦山口...

葉山町堀内地区

葉山町堀内地区

葉山の鐙摺から森戸海岸の辺りまでを堀内と云います。堀内という地名は日本全国どこでもみられますが、お殿様の邸跡であったことにその名が由来するケースがほとんどのようです。ですからここ葉山の堀内にもどうやらお殿様がいたようです。もちろん三浦一族...

森戸神社

森戸神社

森戸神社 森戸神社は源頼朝が三島明神を勧請して創建されたと伝わる神社です。境内からの海の眺めに魅了される景勝地です。森戸神社の近くに「番場」という地名が伝わっています。往時では三浦氏の馬場があり、頼朝が馬揃えを検分したなどと伝わっています。そ...

木古庭不動尊と畠山陣地

木古庭不動尊と畠山陣地

葉山の奥地となる木古庭(きこば)は、横須賀市との境にあります。畠山重忠に由縁する木古庭不動堂や、日蓮が鎌倉に向う途中に立ち寄り法力で湧水させたと伝わる高祖井戸などの史跡が所在しています。このことからも三浦半島の重要な鎌倉街道が木古庭を通っ...

横須賀市


大善寺 ~衣笠城跡

大善寺|衣笠城跡

衣笠城内にある大善寺は、寺縁起によれば、天平元年(728)に行基がこの山に金峯蔵王権現と不動明王を祀り、その別当として建てられたのが大善寺であると伝えられています。現在は蔵王権現社も不動堂も残っていませんが、不動明王像が大善寺の本尊として祀られてい...

清雲寺

清雲寺

三浦一族の本拠となる横須賀市大矢部に清雲寺は所在します。『新横須賀市史』(以下市史)によれば、三浦為継の開基とありました。為通の没年が天仁元年(1108)なので、お寺の創建はそれ以前ということになります。為継は、源頼朝の平家討伐のための挙兵の際に衣...

薬王寺跡

薬王寺跡

近殿神社から狭い路地を伝っていくとあるのが三浦義澄の墓と伝わる五輪塔です。大きめな石塔を三段に重ねたもので、頂部には宝篋印塔らしき石塔が置かれた変わった見た目です。周りには鎌倉でもよく見かける小さなサイズの五輪塔がたくさん置かれていました。ここ...

三浦義村の神社|近殿神社

三浦義村の神社|近殿神社

横須賀市大矢部に所在する近殿神社は、満昌寺や薬王寺跡からも近く、大通りから入った丘陵部の行き当たりに所在しています。境内は社殿と社務所があるだけのこじんまりとした敷地です。社殿の奥に石祠がいくつか置かれていて、三浦の家紋が刻まれたものがありま...

満昌寺

満昌寺

『吾妻鏡』の建久五年(1194)9月29日条に、頼朝が三浦大介義明を弔うため、寺の候補地を巡検させている記事がみられます。これがどうやら満昌寺のようで、満昌寺の縁起には建久五年(1194)の建立とありました。ちなみに、吾妻鏡の記事にはその後満昌寺が建てら...

満願寺

満願寺

満願寺の縁起によれば、寿永三年(1184)、佐原義連が平家討伐のため西国に出陣する際、自らの姿を像に刻ませ、一堂を建立して安置し、軍功成って帰郷後、大伽藍を建立し満願寺と号したと伝えられています。 寿永三年(1184)2月の時点で19歳とあったので、ちょ...

大矢部地区

大矢部地区

北条氏にとって最大の脅威となった三浦一族ともあろう強大な勢力の本拠地が、なぜこのような奥まった場所にあるのだろうと、これまで漠然と疑問に思っていました。特に東京の人だと衣笠に訪れたことなどない人、もしくは衣笠という地名さえ知らない人も少なくない...

鴨居と多々良氏

鴨居と多々良氏

三浦半島の東南に位置する横須賀市 鴨居 は、三浦氏全盛の時代に一族の 多々良氏 が領していたと云われています。三浦一族ながら『吾妻鏡』などではいまいち存在感の薄い多々良氏ですが、今回はその多々良氏と鴨居に焦点を当ててみました。浦賀と走水という比較的誰...

観音崎から見える船の景色

観音崎から見える船の景色

三浦半島の史跡めぐりで観音崎に訪れたとき、撮り鉄ならぬ撮り船を趣味とする人に出会いました。彼は船や港に詳しく、また日本全国の有数の港にも訪れている筋金入りのマニアでした。カメラを趣味とする人が持っているあの武器のような大きなカメラなら観音崎から...

多々良浜横穴墓群

多々良浜横穴墓群

横須賀市鴨居に多々良浜と呼ばれる場所があります。三浦大介義明の四男、四郎義春がこの地を領したので多々良氏を名乗ったと云われています。そしてこの多々良浜には三浦一族より前にこの地にいた人たちの横穴墓が残されています。浦賀方面から海岸線を伝って...

観音寺と権現洞穴

観音寺と権現洞穴

三浦半島の東南に位置する観音崎。東京・神奈川の人なら行ったことはなくとも地名ぐらは知っていると思います。その観音崎には権現洞穴という、その言葉の響きだけでも興味の惹かれる史跡が存在しました。楽しみです。観音崎の地名は、行基が十一面観音(船...

怒田城跡

怒田城跡

怒田城跡のある吉井周辺は、縄文時代では低地に海が広がり、城跡となる台地はいわば岬の突端となっていました。入江は衣笠近くまで深く入り込んでいましたが、弥生時代には佐原辺りまで海岸線が後退しました。また江戸時代になっても周辺は湿地帯となっていたと現...

浦賀城跡

浦賀城跡

浦賀湊の明神山に所在する浦賀城は、房総半島の里見氏対策のため、後北条氏によって築かれた三崎城の出城(支城)として構築されたと考えられています。北条水軍の根城・砦として機能していた模様です。浦賀湊は山に囲まれているため、風当たりが弱く水深があるの...

長井城跡 |荒崎公園

長井城跡 |荒崎公園

長井にある荒崎公園は、著書・資料などで呼び名が異なりますが、長井城・長井館・荒崎城などと呼称される云わば城跡を公園として整備された場所です。 実際に訪れると、三浦半島でよく見られる岩浜の様相から荒崎城という名がピッタリだと思いましたが、赤星先生が...

三浦半島の考察・検証


鉈切遺跡・殺牛祭祀

鉈切遺跡・殺牛祭祀

鉈切遺跡は、京急線追浜駅から夏島方面に向かった現在の横須賀スタジアムの辺りから出土しました。遺構からは、古墳時代の集落跡・祭祀用の高杯・土器・土製玉塁・滑石製模造品など多数の遺物が見つかり、なかでも牛頭骨を神に捧げる雨乞いの儀式、河伯の儀...

追浜の地名の由来の検証

追浜の地名の由来の検証

今回は、横須賀市にある「追浜(おっぱま)」の地名の由来とその検証を行ってみようと思います。はじめて「追浜」と聞いたとき、思わず聞き返してしまいました。どこか聞きなれないインパクトのある不思議な地名ですよね。京急線追浜駅周辺は、大正3年(1914)に町制...

三浦一族の港と海の古道

三浦一族の港と海の古道

全国に散らばる三浦一族の所領を調べていると、彼らの所領には常に海上交通の利便性を意識したかのような特性がみられました。三浦半島と房総半島に拠点を築いていた彼ら一族にとって、海の利を活かす術は生まれついての才覚だったのかもしれません。ということで、...

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