東泉水谷やぐら群
浄明寺地区に「泉水」という小字名が伝わっています。「泉水橋」としてバス停の名前にも使用されています。今回紹介するやぐら群は、『鎌倉市史 考古編』(以下市史)にて「東泉水谷やぐら群」と呼称されています。泉水の東側にあたるので東泉水です。市史に「東泉水谷」とあるように、やぐら群のある辺りを東泉水ヶ谷と云うようです。
そして何と言っても、やぐら群の一つには、これまで見たこともないほどの美しい浮彫りが施されていました。
基本情報
名称 :東泉水谷やぐら群分類 :やぐら
用途 :墓所
住所 :神奈川県鎌倉市浄明寺2−6−23
公共交通機関:JR「鎌倉」駅よりバスで「金沢八景行き」「鎌倉霊園正門前太刀洗行き」「ハイランド循環バス」のいづれかに乗車し「泉水橋」にて下車
東泉水ヶ谷の立地
鎌倉駅から六浦道を下り、浄妙寺・報国寺などを過ぎ、明王院までは行かない辺りが泉水となります。泉水橋というバス亭の名のとおり、滑川を渡る橋が架けられています。橋を渡り奥に進むと泉水です。
泉水橋 |
鎌倉時代、若宮大路を基軸に都市が形成されてきましたが、鎌倉後期から足利政権下では、六浦道が主軸となりました。東泉水ヶ谷は、この六浦道に面し、さらに足利氏の菩提寺浄妙寺や南北朝期の政事の中心であった公方御所に近接しています。
六浦道 泉水の辺り |
未知なる寺院は積善院か?
やぐら群の近くには現在お寺も何もありません。お寺があったという伝承も伝わっていません。しかし、やぐらがあるということは、そのやぐら群を営んでいた寺院が存在していたはずです。
Google map ①東泉水谷 ②梶原谷 |
『鎌倉廃寺事典』に「積善院」という廃寺が記されています。「梶原谷の南方にあり」という文献・資料の記述からも、まさに位置的にはこの東泉水谷やぐら群のある辺りとなります。ですからこの積善院こそが東泉水谷やぐら群を営んでいたのかもしれません。但し、その積善院の詳細は全くの不明であるため、東泉水谷やぐら群を営んでいた寺院が積善院だとしても、そこから何かしらの事実が判明する訳でもないようです。残念。
東泉水谷やぐら群の丘陵麓 |
ちなみにこの建物の裏、つまり東泉水谷やぐら群のある丘陵の麓にいくつかやぐらが隠れています。ここに建っている老人ホームがその積善院跡、もしくは東泉水谷やぐら群を営んでいた寺院跡ではないでしょうか。
麓にあるやぐら |
東泉水谷丘陵部
さて、それではやぐら群に向かってみましょう。一見さん観光客では行くのも憚れるような住宅地の細い路地を奥に進んで行き、丘陵を登って行きます。
東泉水谷丘陵部 |
もしかしたらこの丘陵部は未だに使われているのかというほど道は意外にも踏み跡というより、掘割状といっていいほど凹んでいます。そして凄いです。周辺はひな壇状地形が連なる典型的な鎌倉寺社裏山の様相です。先ほどやぐらのあった位置に寺院があったのではないかという想像が確信に変わります。また地形を見る限り周辺は石切り場としても活用されていたようです。
東泉水谷丘陵部 |
東泉水谷やぐら群
程なくしてやぐら群に到着。周辺はその他半分埋もれかけたやぐらが確認できます。ちなみに市史には「17穴」とありました。地上部分における土地開発の関係で、現在も17基ものやぐらを確認できるかどうかは定かではありません。
東泉水谷やぐら群 |
そして何よりも真先に目に飛び込んでくるのが浮彫りのあるやぐらです。中央に宝篋印塔、そして両脇に五輪塔が浮彫りとして施されています。また、側面にも五輪塔の浮彫、そして納骨穴らしき造作も確認できます。そしてこの辺り一帯に落ちていた石塔をかき集めたのかのごとく窟内には無数の石塔が置かれています。
宝篋印塔の浮彫り |
やぐら側面 |
浮彫は細部に至るまでリアルに表現されています。まさに石塔そのものがそこにあるような雰囲気です。鎌倉中のやぐらというやぐらを見ましたが、ここまで素晴らしい浮彫りは滅多にお目にかかれません。
なぜ宝篋印塔なのか
墓は通常五輪塔が一般的ですが、宝篋印塔でしかもそれを中央に配置することに、このやぐらに何か意味がありそうな気がします。例えば絶対ではありませんが、宝篋印塔は個人の墓というより、五穀豊穣を願って造立されるケースなどをよく耳にするので、この宝篋印塔も、合戦や震災などで多くの人が亡くなったことに対する弔いだったり、またその合戦や震災自体に対する祈りやメッセージが込められているのではないかと思いました。
ちなみにこの浮彫り、光っているかのようで少し眩しいくらいで、本当に何かを語りかけてきているかのようでした。
東泉水谷やぐら |
東泉水谷やぐら |
0 件のコメント:
コメントを投稿