〈極楽寺坂〉切通し
極楽寺坂
江ノ電駅極楽寺駅から由比ヶ浜方面に下る道を極楽寺坂といいます。往時では京と鎌倉の往返路として利用されていた古道です。つまり西側からの鎌倉の玄関口として利用されていました。元々は稲村ヶ崎を通る海岸沿いの古道がありましたが、それに代わる道として開削されました。
極楽寺坂の開削時期は不明であるものの、『吾妻鏡』建長四年(1252)の記事によると、第六代将軍宗尊親王が稲村ヶ崎経由で鎌倉入りしている事が分かるので、それ以降から忍性が極楽寺に入る文永四年(1267)辺りまでに開削、もしくは少なくとも造道工事の着工がはじまったと考えるのが妥当なようです。
関東大震災によって、この辺り一帯の丘陵部が広範囲に大崩落したようで、極楽寺坂は近現代においてかなり掘り下げられてしまいました。以前は成就院とほぼ同じ高さにあったと鎌倉市史に記されています。
極楽寺坂切通し |
成就院参道と極楽寺丘陵 |
極楽寺境内絵図に描かれた極楽寺坂
極楽寺境内絵図にある極楽寺坂には、坂を下りた辺りに施薬非田院・坂下馬病屋などが描かれています。これらは極楽寺地区に多数あった病院施設の一つです。
非田院位置は現在でいうところの五霊神社の辺りになります。また、成就院は、元弘三年(1333)の新田義貞の鎌倉攻めにより焼失したため、一時的に西ヶ谷に移転していたので、極楽寺境内絵図のあるべき場所には描かれていません。
極楽寺境内絵図 ①極楽寺仁王門 ②坂下馬病屋 ③西方寺 ④施薬非田院 |
星ノ井
坂の下にある星ノ井は、井戸の中をのぞくと昼でも星が輝いて見えたことからこの名がついたといわれています。また、ある時、女性が井戸水を汲もうとして包丁をこの井戸に落としてしまってから輝く星が見えなくなってしまったことに因むとも伝えられています。星月ノ井・星月夜ノ井とも呼ばれ、この辺りの字名を星月ヶ谷ともいうそうです。
星ノ井 |
星ノ井のすぐ側に行基が虚空蔵菩薩像を彫って本尊としたのが始まりとされる虚空蔵堂があります。忍性が行基と聖徳太子を信仰していました。
虚空蔵堂 |
西方寺跡
極楽寺坂の東側にある小谷戸が境内絵図にも描かれている西方寺跡だといわれています。谷戸内はあらゆる箇所をコンクリートで舗装していましたが、元々の地形をそのまま固めたかのような微妙に旧態を残す趣きでした。
西方寺は、明月院の開基としても知られる関東管領・上杉憲方に関する寺院です。管領様の邸、もしくは別業がこの辺りにあったのかもしれません。ということは、鎌倉幕府が滅んだ後、権力者が変わっても、極楽寺口が重要な鎌倉の出入口であったことは変わらなかったようです。
極楽寺坂という道ですから、やっぱりありました庚申塔。西方寺跡の小谷戸に向かう階段にひっそり置かれていました。
上杉憲方の墓
極楽寺からも近い場所にある観光客が入っていいのか悩んでしまう民家の隙間を行くと、上杉憲方の墓と伝わる層塔があります。七層のキレイな石塔です。側には妻とも一族のものともいわれる五層塔やその他石塔が並べられています。『かまくら子ども風土記』には永和五年(1379)の銘を持つ宝篋印塔があると記してありましたが、どれのことなのかわかりませんでした。
上杉憲方の墓 |
極楽寺
極楽寺は、北条重時の持仏堂とも云われるもともと深沢にあった寺が移転してきたものだと伝えられています。忍性が極楽寺に入ったのが文永四年(1267)の重時の七回忌追善時なので、本格的な極楽寺伽藍の整備は、重時の子である長時・業時兄弟によるものと考えられています。また、重時の妻と長時夫妻らが忍性の師である叡尊から受戒し、教団に深く帰依していました。
極楽寺 |
極楽寺坂からの景色
極楽寺坂成就院前からの景色は鎌倉でも有数の眺望スポットです。春には桜、シャガ、夏には紫陽花が咲き、この景色にさらに彩りを加えます。
そして上記したように、この成就院前からの景色は、切り下げられる前の往時の極楽寺坂からの景色となります。鎌倉に訪れた歴史上の人物らがこの景色を見て「鎌倉に着いた~」と感じていたはずです。そう考えると、とてつもなく趣きのある景観だと思えてきます。
極楽寺坂成就院前からの景色 |
参考資料
『鎌倉市史:考古編』『鎌倉の古絵図』
『かまくら子ども風土記』
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