後深草院二条と鎌倉
この記事では『とはずがたり』の著者で知られる後深草院二条の、鎌倉に訪れた際の記述から当時の鎌倉の様子を探ってみました。
後深草院二条と鎌倉 |
後深草院二条
実名 :不詳出自 :源氏
生年 :正嘉二年(1258)
没年 :不詳
『とはずがたり』の著者として知られる後深草院二条は、久我大納言源雅忠の娘で実名は不詳です。正嘉二年(1258)の生まれで没年は伝わっていませんが、少なくとも50歳頃まで『とはずがたり』を記していた事がわかっています。
『とはずがたり』の前半は著者である後深草院二条が宮中における男性遍歴をあますことなく書き記した日記文学です。後半は32歳で出家した後に日本各地へと旅に出た体験が記されています。したがって著書は、日記文学とも紀行文学ともとらえられますが、一方で『増鏡』が彼女の文章を多量に引用していることから、記録文学としても専門家から注目されています。
14歳で後深草天皇の寵愛を受けながら、同時に西園寺実兼、性助法親王、亀山院などとも情事を重ねる自由奔放な彼女の行動と、『とはずがたり』における彼女の文学的表現に現代では多くの人が魅了されています。二条は少なくとも4人の子供を出産していますが、その子供らと親子として関わることはなかったといわれています。
後深草院二条の鎌倉下向
院での生活に疲弊した後深草院二条は、出家して全国行脚の旅に出ます。そして正応二年(1289 )の32歳の時に鎌倉に訪れています。鎌倉では北条貞時の治世で、七代将軍の座を廃された惟康親王が鎌倉を追放されるちょうどその時でした。
そして『とはずがたり』に記されていた鎌倉の字名を抽出してみたところ、江ノ島・極楽寺・化粧坂・荏柄・二階堂・大御堂・大蔵谷・新八幡・御所・佐介谷・若宮小路・山ノ内山荘とありました。下地図画像はその記されている字名をプロットしたものです。
Google map 後深草院二条の鎌倉での足あと |
抽出した字名にある「山ノ内山荘」ですが、正確には「山ノ内という相模殿の山荘」とあります。北条時頼の最明寺があった明月院のある明月谷を指すものと思われます。
また、新八幡(鶴岡八幡宮)・大御堂・二階堂(永福寺)と、源頼朝が建立した寺院全てに訪れています。頼朝の旧跡をめぐる一種の観光のようにも思えますし、もしくは同じ源氏の血筋として何かを意識していたのかもしれません。
鎌倉滞在中は大蔵谷と佐介に泊まっています。大蔵谷にいた小町殿という縁者から「私のところへいらっしゃい」というお誘いに「かえってわずらわしい」と二条は近くに宿をとっています。
それでは、二条が訪れたこれらのうち、特に当時の鎌倉の様子が伝わってくるであろう江ノ島と化粧坂について取り上げてみました。
江ノ島
次田香澄著『とはずがたり全注訳』から引用。
江ノ島という所に着いた。所の有様はおもしろいなど言ってもとても言葉がないくらいである。漫々たる海の上に離れている島に、岩屋がいくつもあるところに泊まる。これは千手の岩屋ということで、苦行修行も年を経たとみえる山伏が一人行をしている。霧の籬(まかぎ)、竹の編戸、そまつではあるものの優雅な住まいである。
二条は江ノ島を言葉で表せないほどユニークな場所だと言っています。そして岩屋に泊まったとありますが、江ノ島の岩屋といえば海蝕洞穴なので二条はそこに寝泊まりしたようです。但しそこには山伏がいて色々と接待してくれたと文章が続きます。
あの二条が、都の院の女性がですよ、海蝕洞穴に寝泊まりするのかと驚いてしまいますが、やはり「この粗末な寝床では夢を結ぶほど眠れない」とこのあとに記されていたのでさすがにこういう場所に泊まり慣れている訳ではないようです。
海蝕洞穴は縄文時代から古墳時代ぐらいまでの住居跡が発掘調査でよく確認されていますが、やはり横穴というのはこの二条の例からも寝泊まりする場所としてこの時代でも活用されていたことがわかります。一般の女性であればまだしも、都の院にいた女性が岩屋(海蝕洞穴)に寝泊まりすることに驚いてしまいます。仕方がなかったにしろ、この時代では珍しいことではなかったのかもしれません。
化粧坂
次田香澄著『とはずがたり全注訳』から引用。
夜が明けると鎌倉へはいったが、極楽寺という寺へ参ってみると、僧の所作は都と違わないのをなつかしく思ってみた。化粧坂という山を越えて鎌倉のほうをながめると、東山で京をみるのとはだいぶ違って、家々が階段のように幾重にも重なって、袋の中に物を入れたようにぎっしりと住まっているのは、ああやりきれない、とだんだん見えてきて、心の惹かれるような気もしない。
「化粧坂という山を越え、鎌倉の方を眺めると、家々が階段のように幾重にも重なって、袋の中に物を入れたようだ」とあるこの「家々が階段のように幾重にも重なって」というのは、鎌倉名物のひな壇状地形に建つ家々を表しています。昔からそうだったのだろうと誰もが考える鎌倉の景観を改めて二条が証言してくれています。
そして問題となるのが、「化粧坂という山を越えて」という部分です。これは彼女のその後の行動からも、どうやら化粧坂ではなく極楽寺坂の間違いではないかといわれています。
彼女の行動を整理すると、極楽寺に参詣後、化粧坂を超え鎌倉の街並みを眺め、由比ヶ浜に出たところで、大きな鳥居があって、遠くに若宮の御社が見えると記しています。鎌倉の地理上の観点から考えれば、極楽寺から極楽寺坂を下り由比ヶ浜に出たと考えるのが妥当かと思われます。
「とはずがたり」は、リアルタイムで記されたものではなく、二条が49歳になった嘉元四年(1306)に執筆されたものなので、どこか記憶が曖昧になったと考えてもおかしくないのかもしれません。
極楽寺坂は近現代で掘り下げられています。「成就院前が本来の切通し頂部」だと『鎌倉市史 考古編』にありました。ですから極楽寺坂成就院前からの展望は、二条が見たかもしれない景色となります。坂の向こうに由比ヶ浜が見える鎌倉指折りの絶景ポイントです。
極楽寺坂成就院前からの景色 |
厳密に言うと極楽寺坂からの景色に「家々が階段のように幾重にも重なって、袋の中に物を入れたよう」という程の景観をいまいち感じませんが、極楽寺坂の丘陵頂部にある仏法寺跡からなら格別に景観が広がります。もしかしたら二条が示す眺望ポイントは若干ずれるのかもしれません。
仏法寺跡から眺めた光明寺 二条がいう「家々が階段のように」状態 |
但し、鎌倉ですから、鎌倉のどの辺りからも二条のいう「家々が階段のように幾重にも重なって、袋の中に物を入れたよう」という景色は見れたのだと思います。
鎌倉山から眺めた江ノ島 二条がいう「家々が階段のように幾重にも重なって」状態 |
化粧坂(葛原岡)から眺めた扇ガ谷 二条がいう「袋の中に物を入れたよう」状態 |
二条のいう「家々が階段のように幾重にも重なって」などの記述が、「そうそう鎌倉ってそうなんだよね」と、700年以上前に鎌倉に訪れた人と共感できるところが個人的な感動ポイントでした。歴史好きな人ならわかってくれると思いますが、「あの人がいた場所と同じ所にいるんだ」「あの人と同じ景色を見ているんだ」というあの感動です。
その後、二条はしばしの滞在後、善光寺へ向かうため鎌倉を離れます。文章を読みながら少し寂しい気持ちになりました。外タレが帰国してしまうみたいなそんな感じ。
後深草院二条の人間像
今回引用させていただいた『とはずがたり全注訳』を著した次田香澄先生の二条に対する解説として、「プライドが高く、かなりわがままな性格である」とあり、また出家後に境遇が変わったとはいえ「本質においては変わらない」「団体行動には堪えられない」などとありました。
作家の永井路子先生は、「女性は自分の事を書くと、非常なナルシシズムに陥るか、自己弁護的になりがちなものですが、二条は自分というものを客観的にとらえて書いている」「こういう形での文学を書いた女性はこれまでありません」などと評しています。
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後深草院二条の全国行脚の旅は憧れの西行を模したものだといわれています。
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